吉原宿の変遷 浜悠人
奈良時代、西国から東国(あづま)へ下る時には愛鷹山麓を通ったであろうか。先日、富士広見公園の片隅に万葉歌碑(東歌)を発見した。
「天の原富士の柴山木の暗(くれ)の時移りなば会はずかもあらむ」 私なりに解釈すれば、「富士山の麓の柴山で逢う瀬をひそかに楽しんでいたが落葉の季節ともなれば人に見られ会うこともできなくなるだろう」。
また、万葉の歌人山部赤人は「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」-と詠み、その屹立した歌碑が田子の浦港近くの公園に見出される。
吉原駅南の海岸を「田子ノ浦」と言い、古くは興津辺りまでの海辺を田子ノ浦と呼んだらしいが、現在、海岸の名として残るのは、ここのみである。ここからの富士山は海抜0㍍から真正面に見ることができる。
時移り、慶長六年(一六〇一)、徳川家康による東海道の整備に伴い吉原宿は江戸日本橋から十四番目の宿駅に指定された。ここは海に近く葦(よし)が生い茂る湿地帯なので吉原と呼ばれた。
最初の吉原宿は元吉原辺りに置かれ、現在では元吉原宿と呼んでいる。これが寛永十六年(一六三九)の高潮の被害に遭い、依田橋付近に移り、そこは中吉原宿と呼ばれた。
さらにその後、延宝八年(一六八〇)、中吉原宿も高潮により壊滅的な被害を受け、より内陸の伝法村に割り入る形で移転、現在の吉原本町通り辺りに新吉原宿が作られた。二度にわたり宿場は移転。現在の吉原の地に落ち着くことになったのである。
中吉原から新吉原へ移る際、東海道を曲がって進むので途中、富士山が左手に見える個所があり、安藤広重の描いた「東海道五十三次吉原」は左富士と呼ばれ、有名である。
ここから、さらに新吉原に進めば「平家越えの碑」に当たる。治承四年(一一八〇)、伊豆で兵を挙げた源頼朝を討つため平維盛らは富士川西岸の清見ヶ関に布陣した。ところが平家軍は飛び立つ水鳥の羽音を源氏の奇襲と間違えて逃げ去り、源氏は戦わずして勝利を収めた。
この伝説が「平家越えの碑」であり、現在の富士川より六㌔も東にあり、富士川が幾度も湾曲してきたことを示すものである。
天保時代(一八三〇~一八四三)の新吉原宿は本陣二軒、脇本陣三軒、旅寵(はたご)六十軒(現在の鯛屋旅館もその一軒にあたる)で、宿場の主な役割は人馬の継立で、問屋場(といやば)と呼ばれる施設が司っていた。新吉原宿は人足百人、伝馬百疋の常備が課されていた。
本陣は参勤交代の大名や公家、幕府役人の宿泊に使われ、本陣で足りない時には脇本陣が利用された。また、旅寵は伊勢参りの人や旅入に使われた。
宿場を散策していると、「東海道、大宮街道の道しるべ」なる標識を見つけた。ここが大宮(現富士宮)街道、根方街道、十里木街道の起点ともなる交通の要衝であることが分かった。
本来、水に恵まれた吉原は江戸時代から駿河半紙の生産地であった。明治に入り西洋紙の輸入で和紙産業が衰退し始め、明治二十年(一八八七)の富士製紙会社設立を期に和紙の生産地から近代製紙業の町へと生まれ変わったのである。
三度の変遷を経た吉原が今や一大工業都市として活躍しているのも頼もしい限りだ。
(歌人下子田)
【沼朝令和2年10月22日(木)寄稿文】
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