三枚橋城主中村一栄の書状見つかる
新たに愛知県小牧市の寺院から
安土桃山時代の三枚橋城主である中村一栄(氏次)が出した書状の実物が新たに発見された。書状は関ヶ原の合戦の直前に出されたと見られており、沼津と関ヶ原の関連を示す重要な発見となりそうだ。
関ヶ原に向かう途中か
沼津との関連示す重要な史料に
この書状は、愛知県小牧市の小松寺に伝わる「中村彦左殿折紙」と呼ばれるもの。小松寺に対し、同寺院内に駐留する兵士の風紀取り締まりを約束する内容で、日付は「八月廿二日(22日)」とのみ記されている。
書状の差出人は「中村彦左」となっているが、これまで正体不明とされていた。今回、歴史学者の柴裕之さんによって中村彦左と中村一栄が同一人物であると判明した。柴さんは、先月11日に沼津市立図書館で開かれた歴民講座に講師として招かれ、中村氏領有時代の沼津について解説している。
書状差出人の確定では、書状に添えられた花押(かおう=武将のサイン)が決め手となった。一栄のものとして知られている花押の形=下の写真(『駿河志料』より)=と今回の書状に記されている花押の形=左の写真中の左下(小牧市教委『小松寺文書』より)=が同様のものであった。
中村一栄は、慶長5年(1600年)9月に起きた関ヶ原の合戦では、駿河一国を治める中村家を代表して出陣。関ヶ原の前哨戦である杭瀬川の戦いでの苦戦で歴史に名を残した。
小松寺のある愛知県小牧市は駿河と関ヶ原を結ぶルート上にあることと、書状に書かれた8月下旬という日付を合わせると、この書状は関ヶ原へ向かう途中の一栄によって出されたと考えられるという。
一栄によって出された書状は、これまでに4点の存在が確認されている。そのうち3点は後世に書き写されたもので、実物と考えられるものは1点。
今回の発見は、数が少ない一栄関係の史料が新たに見つかった点だけでなく、中村家の関ヶ原出陣にまつわる直接の史料としては唯一のものであることから、非常に貴重なものとなりそうだ。
一栄の出陣が立証されることは、一栄の部下として沼津の人間も関ヶ原に行っていた可能性をうかがわせ、沼津もまた、日本史上の大事件と無縁でなかったことを示している。
また、今回の発見は一栄関係の新史料が今後も発見される可能性を示した点でも意義がある。
中村彦左殿折紙の詳細については、市歴史民俗資料館が発行する資料館だより(年4回発行)に今後、掲載される予定。
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中村一栄(「かずひで」、あるいは「かずしげ」)は、豊臣秀吉の家臣中村一氏の弟。兄が天正18年(1590)に駿河を治める大名になると、沼津の三枚橋城を与えられた。関ヶ原の合戦の直前に兄が死去し、その子が幼かったため、一栄は兄の子が成人するまで代理人を務めた。
関ヶ原後、中村家は伯耆(ほうき=現在の鳥取県西部)に国替えとなり、一栄は伯耆東部の八橋城に移った。間もなく同地で没し、子の栄忠が一栄を弔う寺として大岳院(鳥取県倉吉市)を建立している。
三枚橋城時代の一栄は「氏次」と名乗っていて、一栄の名を使うのは伯耆時代と見られる。
昨年夏、徳川家康が一栄に一氏遺児の代理人就任を命じる書状が東京の古書店で発見され、静岡市が購入して一般公開された。
【沼朝2020年(令和2年)2月11日(火曜日)】
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