2020年2月5日水曜日

奈良時代の伊豆の国と三島 浜 悠人


奈良時代の伊豆の国と三島 浜 悠人
 三島の駅前には緑に囲まれた静寂な楽寿園がある。園内の一画に三島市立郷土資料館があり、入ってみた。実のところ、奈良時代の伊豆の国について興味を持ったからである。学芸員さんにコピーして頂いた伊豆についての年表により辿ってみると、
・西暦六八〇年(天武天皇九年)駿河の国より伊豆の国が分けられた。
・西暦七二四年(神亀元年)流罪の遠近を定め、伊豆など六力国を遠流(おんる)の国とした。
 遠流とは律令制の三流(遠流、中流、近流)の一つで、最も重い流罪。延喜式では伊豆、安房(千葉県)、常陸(茨城県)、佐渡(新潟県)、隠岐(島根県)土佐(高知県)の六力国があたる。
・西暦六九九年(文武天皇三年)役君小角(えんのきみおづぬ=山伏の祖)が伊豆の島に流される。
・西暦七四一年(天平一三年)小野東人が伊豆の三島に流される。
・西暦七四二年(天平一四年)塩焼王が伊豆の国に流される。
・西暦一一五六年(保元元年)源為朝が伊豆大島に流される。
・西暦一一五九年(平治元年)源頼朝が韮山の蛭ヶ小島に流される。
・西暦一一七三年(承安三年)文覚上人が韮山の奈古谷に流された。
 国府 奈良時代に入り「律令国家体制」が整うと、伊豆の国にも国司が派遣された。国司が国を統治する拠点が国府で、国府は、いわば初めての地方都市であり、国を司どる国庁は一町(100)四方くらいを築垣で囲んだ立派な役所であった。
 伊豆の国府の所在地は確定されていない。一説に、大仁町田京にあったのが三島に移っとか言われるが、裏付けが乏しい。
 昭和三十年代、三島市芝本町から布目瓦が発掘され、この付近が国府所在地とされている。鎌倉時代の前後には三嶋大社の東側に移ったと考えられる。
 市街地の発掘調査では三嶋大社境内遺跡や東本町の上才塚遺跡が国府関係の建物跡ではないかと注目されている。
 国分寺と国分尼寺 聖武天皇は西暦七四一年(天平一三年)、各国に国分寺建立の詔を発した。国分寺とは国ごとに設けられた国立寺院で、僧寺と尼寺の二寺制を取った。僧寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」、尼寺は「法華滅罪之寺」と定められた。
 僧寺の定員は二十人、尼寺は十人と定められ、生活費として各々水田十町を与えられるなど、その維持経営の細目が決められていた。また、寺地は僧寺が二町(200)四方、尼寺が一町半(150)四方を原則としていたようだ。
 現在、遠江の国の国分寺跡は磐田市見附にあり、駿河の国の国分寺跡は静岡市葵区長谷寺の真言宗醍醐寺派の寺院にあたる。
 ところで伊豆の国の国分寺は現在の三島市泉町にある日蓮宗の寺院で旧称は蓮行寺、山号は最勝山、本尊は釈迦如来で、伊豆の国の国分寺の後継寺院にあたる。
 昭和三十一年(一九五六年)の発掘調査により、寺域は二町四方と推定され、僧坊、講堂、金堂、中門南門の遺構が確認された。しかしながら、伽藍(がらん)の詳細は明らかになっていない。現存する八個の石が七重の塔の礎石の一部で、塔の高さは六十㍍程あったと想像されている。
 伊豆の国の国分尼寺が創建された場所は現在の三嶋犬社の南、大社町の祐泉寺辺りと思われる。祐泉寺には当時の西塔の礎石が残っており、近くの法華寺は国分尼寺の後継寺と伝えられる。年表によれば国分尼寺は西暦八三六年(承和三年)焼失し、西暦八八四年(元慶八年)新たに建立することを許された、とある。
 以上、年表を中心とし奈良時代の伊豆の国や国府三島を辿ってみた。そして、この地が平穏なロマン溢れる里だったに違いないと思った。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和2年2月5日(水)寄稿文】

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