2019年10月17日木曜日

沼津兵学校とその群像 堀田(ほつた)維禎


第一章 静岡藩の御貨人
 廃藩後も続いた派遣先の教え子との交情を示すものとして、鹿児島藩御貸人堀田維禎の墓石脇に建てられた碑(東京都豊島区.染井霊園)がある。珍しい史料なので以下に掲載しておこう。
 奉献 明治壬申歳請静岡堀田先生於我鹿児島学校教員生徒皆従受数学励精勤業以期有成焉先生亦不吝力而導之今茲甲戌暑月沿例休課先生就其暇帰省郷既赴東京適罹疾不起越廿四日訃至相共茫然大失所望矣鳴呼余輩雖庸駑而於其術粗有所得皆先生之澤也爰受業弟子凡四十三人相謀捐建石灯一基子塋域以誌麗澤且表哀惜之意云
                   明治甲戌十二月同謹撰

堀田維禎碑文飜訳
ささげたてまつる。明治五年、静岡の堀田(維禎)先生を招請し、我が鹿児島学校において、教員・生徒が皆数学を受け、精励・勤業し、成果を上げることを期した。先生もまた、惜しむことなく指導してくれた。本年(明治七年)夏、例年通りの休課中、先生はその暇に故郷に帰省し、やがて東京に赴き、たまたま病気にかかり治らず、二十四日死亡の知らせに接し、ともども荘然とし、大いに希望を失った。ああ、我々は凡庸といえども、学業において皆あらまし習得できたのは、先生のおかげである。ここに授業を受けた弟子およそ四十三人が相談し、資金を寄せ合って、石灯一基を先生の墓地に建て、そして、助け合って勉学に励まんことを記し、なおかつ、哀惜の意を表すものである。

                   明治甲戌(七年)十二月同謹撰

 河野広 中摩直助 比野休蔵 木佐木長信 坂口善之丞 三崎久志 川畑金之助 山元中寛 山元中正 高見弥市 田原平一 松崎鉄二 波江野源之介 林清武 岸雄二 樺山資常 桑波田景広 山口真菅 田中良道 池田純雅 永山操一 佐藤集治 間瀬田実房 長倉十次郎 西季暢 野元綱清 伊集院宗吉 西純熈 蓑田長盛 久富木重誉 町田厳槌 永田良雄 平賀裕神 友野由彦 成尾吉詮 石井元定 原弓太郎 南八郎太 宮原正助 関計一 町田直吉 鍋倉直 玉利喜造 大島之仙蔵

この碑文によると、堀田は明治五年に鹿児島の学校教師を引き受けたとあり、廃藩後も改めて同地で教鞭をとったことがわかる。しかし、明治七年(一八七四)一一月八日、帰省中の東京で二十九歳で病没した。多くの弟子たちに慕われたらしく、このような石碑が建立されたのである。
 ちなみに、石碑に名前が刻まれた堀田の弟子のうち、著名な人物は、玉利喜造(一八五六~九三)と大島仙蔵(一八九三年三十五歳で没)の二人である。玉利は、薩摩藩士の子に生まれ、鹿児島での少年時代には、藩校造士館、小学校、西兵学寮などで学び、明治八年に上京、のちに農学博士・東京帝国大学教授・貴族院議員になった。大島は、奄美大島に生まれ、明治四年鹿児島の本学校に入学、学力抜群により中学生(助教)に採用され、八年(一八七五)大山巌に伴われ上京、工部大学校を卒業しアメリカへ留学、帰国後は鉄道技師として活躍した。
静岡から鹿児島への御貸人は、はるか後年にこのような人材の花を咲かせる役割も果たしたのである。市来四郎が大久保利通へ護したことにより阿部潜が大蔵省に奉職したごとく、御貸人をめぐっては・教育制度の移植という個面だけではなく、個々の人間的なつながりの形成についても見落とせないのである。

(「沼津兵学校の研究」樋口雄彦著 平成191010日発行)




旧幕臣の明治維新 樋口雄彦
 沼津兵学校とその群像 堀田(ほつた)維禎
 徳島藩と鹿児島藩では、御貸人の招聘を機に静岡藩の小学校制度を取り入れた教育改革を実施している。徳島藩が四年正月に設置した小学校の規則は、「徳川家兵学校附属小学校掟書」に倣(なら)ったものだった。鹿児島藩が同年同月に始めた本学校-小学校・郷校の進級制度は、兵学校ー附属小学校のしくみを取り入れ、「普通之学問」(資業生の基礎科目相当)の習得に主眼を置いたものだった。鹿児島では廃藩後も静岡藩の制度的影響が続き、八年(一八七五)六月に制定された「変則小学校規則」は「静岡藩小学校掟書」にそっくりだった(井原政純「鹿児島藩の学制改革と静岡藩からの影響ー()『本学校ー小学校・郷校の制』を中心にー」『国士館大学教育学論叢』第一七号、一九九九年)
鹿児島に赴いたのは、沼津兵学校の生みの親ともいうべき阿部潜(せん)と附属小学校頭取蓮池新十郎らであった。倒幕(とうばく)の張本人たる鹿児島藩への肩入れは、相手からも感謝され、戊辰時の感情的なしこりを解消する役割も果たしたようである。第二期資業生から鹿児島藩御貸人となり数学を教えた堀田(ほつた)維禎は、鹿児島の生徒たちに慕われ、死後追悼のための記念碑が東京の墓地に建てられている。
 なお、沼津兵学校以外では、静岡学問所からの御貸人派遣は少ないが、箱館戦争降伏人と勤番組からの派遣数は極めて多い。無役の者や帰参した者の中にも有能な人材が眠っていたわけであり、静岡藩では彼らを他藩へ貸し出すことで、人材の有効利用と食い扶持(ぶち)の節減との一石二鳥をはかったといえる。


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