2019年10月11日金曜日

興国寺城の変遷に時代的特徴


興国寺城の変遷に時代的特徴
早雲から江戸時代初頭まで
 北条早雲公顕彰五百年記念イベントの一環となる歴史講演会「興国寺城跡と続日本100名城」が5日、プラサヴェルデで開かれた。考古学関係者らが市内根古屋の興国寺城や県内の城について話した。
 早雲公顕彰500年記念イベント
 城郭専門の加藤理文さんが解説
 興国寺城を取り上げたのは、日本城郭協会理事の加藤理文さん。加藤さんは県埋蔵文化財調査研究所や県教委文化課を経て現在は中学校教諭。「考古学から見た興国寺城跡の歴史的意義」と題し、城の構造の変遷などについて話した。
 構造の変遷についての話では、城所有者の変遷に合わせて北条早雲(伊勢盛時)時代、今川時代、武田時代、徳川時代、中村・天野時代の5つの時代区分を設定し、それぞれの特徴を解説した。
 早雲時代の興国寺城については、早雲が同城の城主になっていたと仮定した上で、その場合の同城は「方形居館」という形態であったであろうとの見方を示した。
 方形居館は、上空から見たら四角形をしている敷地に建てられた屋敷で、城のような防御機能はない。
 加藤さんは、平地に居館が位置し、周囲の高地に見張り台のような施設があるイメージを示した。
 今川時代の同城の特徴としては、大改修によって軍事的防備を意識した城が誕生したと指摘した。
 ただ、大軍の襲来を想定した造りにはなっておらず、崖や沼などの自然の地形を、そのまま敵を防ぐ施設として活用し、足りない部分を堀や土塁(どるい=土の壁)で補うものであったという。
 この頃は、現在の同城跡の北端部分のみが城域となっていた。
 武田時代になると、城の拡張が進み、現在の城跡の北端だけでなく中央部も城域となった。この時代の大きな特徴は、武田氏が得意とした三日月堀の建設だという。
 三日月堀は敵の城内突入を防ぐために城門前に造られる堀で、堀の内側に沿って設置される土塁と合わせて丸馬出(まるうまだし)と呼ばれる防御施設を構成する。丸馬出は、城門に殺到する敵兵の動きを停滞させ、城内から弓や鉄砲で狙い撃ちにさせる機能があった。
 三日月堀や丸馬出は他の戦国大名も模倣するようになったが、興国寺城の三日月堀は、武田氏によって造られたことが判明している全国唯一のものだという。
 徳川氏は、丸馬出の技術を取り入れ、さらに大型化した。戦国時代末期になると、大名が動員する軍勢の規模が巨大化したため、これを迎え撃つために城の施設も巨大化したという。
 徳川時代の興国寺城は、城の北側に巨大な丸馬出が造られた。このほか、城兵の居住施設や倉庫などの大改築が行われた。
 豊臣秀吉による天下統一後から江戸時代初期に至る期間の中村・天野時代は、さらなる大改修が行われた。本丸や二ノ丸、三ノ丸の増強が行われ、外堀や外郭土塁が造られた。
 城跡にある「伝天守台」と呼ばれる場所の工事が行われたのも、この時期だったという。
 加藤さんは、伝天守台にあったであろう建物については、高層の天守閣ではなく平屋の建物だったとの考えを示した。
 当時、国内各地に築かれた城は、天守閣を建てずに天守閣の代わりとなる平屋の建物を建設するケースがあった。伊達政宗が築いた仙台城などの例があるという。天守閣の代用となる建物は、屋根に唐破風(からはふ)を付けるなど手の込んだ造りになっており、こうした建物は格式の高いものと見なされていた。そのため、天守閣と同様に城のシンボルになり得た。
 興国寺城も、こうした建物が天守閣の代わりに建てられていた可能性があるという。
 加藤さんは同城の構造の変遷のほかに、城の復元や活用についても提言し、見学者が城跡に来たことを実感できる仕掛けとして、外部との境界となる土塁や堀、城門の復元が重要であるとの考えを示した。
【沼朝令和11011日(金)号】

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