2019年8月8日木曜日

慰霊の旅・グアム島 浜悠人




慰霊の旅・グアム島 浜悠人
 昭和十八年夏、義兄土屋寿次大尉は神奈川県相模原で自動車の将校教育を受けていた。当時、国民学校(現小学校)六年生だった私は、夏休みを利用し、沼津から神奈川県相武台の軍官舎に出掛け、宮舎で義兄の軍刀を握り締め、いつの日か憧れの軍人になる日を夢見ていた。
 そんな私に無言で二十四色入りの色鉛筆を渡し、義兄は満州(現中国北東部)へ征った。文学や芸術を重んじた義兄の思いが私への色鉛筆のプレゼントになったものだと後になって分かった。
 昭和十九年春、義兄は満州の遼陽に駐屯していたが、戦況急を告げ、連隊と共にグアム島に向かっていた。アメリカ機動部隊はマリアナ沖海戦で日本の連合艦隊に勝利し、同地域の制空権、制海権を奪い、昭和十九年六月から七月にかけアメリカ軍はサイパン、テニアン、グアムの三つの島に猛攻撃をかけて上陸、日本軍は玉砕の道をたどった。義兄もグアム島で華々しく戦死した。
 昭和四十七年、玉砕の地、グアム島の密林に二十八年間潜んでいた元陸軍軍曹の横井庄一さんが発見された。彼は長年のジャングル生活にもかかわらず健康に留意し、元気に、その年の二月二十日、「恥ずかしながら」と故国の土を踏んだ。
 そして、隊長だった義兄の「生命を粗末にするな」の言葉を胸に生き永らえてきた、と語った。私は義兄の名に驚くと同時に、その人間味ある言葉に胸を打たれた。
 私は二年後の昭和四十九年、義兄の慰霊のため、グアム島に渡った。島の東南にある白浜の海岸で戦死したとの情報を頼りにジープを雇って出発した。
 タロホホ川を過ぎた辺りに白浜の入江があり、渚はアメリカ人のプライベートビーチになっていた。片言の英語で事情を話すと分つたらしく案内してくれた。
 家内と二人で、持参した線香、米、酒、沼津の水を波打ち際に供え、義兄の冥福を祈った。アメリカ人は不思議そうに私達を遠巻きに眺めていた。
 帰途、グアム空港で、みやげ物を沢山買い込んだ観光客に接すると、国のため、同胞のために戦死した義兄や兵達の思いが胸を突き、なんともやるせない思いがした。
 それから三十八年を経た平成二十四年、名古屋に横井庄一記念館があることを知り、訪ねた。記念館は横井さんの自宅を改装したもので、グアム島で二十八年間を送った地下壕の生活で使った数々の道具が展示されていたが、いずれも横井さん自身が作り、再現したものだった。
 この時、横井さんは既に亡くなっていて、生前の横井さんにお会いすることはなかったので、奥様に話をし、仏壇に慰霊の線香をあげさせていただいた。
 定年後、私は今次大戦、各地で戦死された方々のご冥福を祈る旅を続けて来たが、これからも続けたいと思っている。
 (歌人、下一丁田)
【沼朝令和188日(木)寄稿文】

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