◆沼津ヒラキ物語①
「下河原町(しもがわらちょう)と河岸(かし)」 加藤雅功
今回から地元の水産加工業の干物と「開き」の歴史について少し語っておきたい。まず最初に、下河原の集落の性格と生活の舞台を中心にして記す。
●集落の性格 すでに紹介した江戸時代後期の文化3年(1806)作成の「沼津本町絵図」から夫役(ふえき)を読むと、宮町(みやちょう)・下河原町とも歩行(あるき)屋敷と船手(ふなて)屋敷が多く、野(の)屋敷も10数軒を数える。宮町は船手が28軒、歩行が7軒で、家数48軒の下河原町では船手・歩行がほぼ半々であった。ともに狩野川河畔の「河岸(かし)」に位置し、道沿いに短冊型の土地割をなし、人足役を勤める歩行役以上に集落を特色づけたのは船手(ふなて)役で、船舶の管理や運送の任務に当たっていた点にある。
河川の港湾をなす「河岸」は船の荷物の積み下ろしをする岸であり、古くに北側の上土(あげつち)のほか、「魚町(うおちょう)」から「仲町(なかちょう)」にかけてがその中心で、問屋・仲買の人々が活躍する場でもあった。大正から昭和初期の絵葉書や新版画に描かれた蔵の連なる倉庫街と「河岸」の風景は、今もその片鱗(へんりん)をわずかに残している。
狩野川右岸では「河岸」の景観だけではなく、「川除(かわよけ)」の機能が重要であり、古くから洪水制御を目的に「出し」が築かれていた。下流側へ斜めに突き出す「石突き出し」(石出し)は単に「出し」と呼ばれ、細い河岸道(かしみち)の先に構築されて、普段は船の係留に役立てられていた。長さは6間程度、幅も5間前後あったが、基礎の材木に太い松などを矩形(くけい)の格子(こうし)状に組み、間に捨て石を置くために堅固で、新旧の堤防工事ではその撤去に難儀した。なお、明治末期には、宮町から下河原町にかけて7つの「出し」があったことを知る。
これらの「出し」のほか、「河岸」に降りる坂や階段、舟繋(ふなつな)ぎの松、石垣・擁壁(ようへき)等から、川に依存する河港(かこう)の機能だけでなく、洪水災害常襲地の護岸の特異さを反映し、生活に根差した文化的景観をなしていた。
●生活の舞台 明治初頭の宮町・下河原町の絵図面を見ると、妙海寺(みょうかいじ)へは不動院に接した妙海寺通り(妙海寺門前)からで、「中(なか)の寺」と呼ばれた妙海寺の大門より先には、「ゑんぎ館」(ゑんぎ旅館)などが進出した。祖父が青年期に過ごした沼津本町の南端で、よく会話の中で「ゑんぎ館」の裏にあった「入町(いりちょう)」の実家のことが語られた。移転後に親類の加藤角次郎(山加)が住んだ地で、黄瀬川の被圧地下水を上総掘(かずさぼ)りで鉄管を貫いて得る「掘り抜き」の共同井戸を挟んで、友人の前田勉(丸リ)の家があり、ともに古くからヒラキの水産加工業を営んでいた。アジを代表とした魚の加工では、洗いや塩汁(しよしる)に潰ける際に井戸水などを大量に使用し、また近くにヒラキの干し場を求めるのが常であった。
狩野川は柿田川の湧水が大量に注ぎ、清流のために沖合(流心)から汲み上げた水は腐らず、外洋に出る船舶が航海前に永代橋の下流で汲んでいたことを、よく父が話していた。「出し」と「出し」の間は「水の流れが一時的に止まって静かになり、魚の洗い場として好適であった」ことを山加の伯父が語っている。
また、新玉(あらたま)神社北側にあった「新玉(サス六)の出し」でも昭和7年頃、露木家(サス六)が魚の洗い場に利用していた。いずれも戦前の穏やかで、清らかな河の流れの頃の話である。
絵図面に戻ると、下河原町の旧道から西側に入る道は「天王(てんのう)道」と呼ばれ、「中(なか)の寺」の妙海寺と「下(しも)の寺」の妙覚寺(みょうかくじ)の境内が接する位置に天王社が祀(まつ)られていたことに因(ちな)む。疫神(えきがみ)の牛頭(こず)天王を祭った天王社は、紙園(ぎおん)社とも呼ばれ、かつ下河原(下川原)の地名由来とも関係して、一時「下河原神社」とも呼ばれた。
また、天王道から入って突き当りの妙海寺に「古表門」の標記が別の古絵図にあり、この分岐した道が古くから成立していたことを知る。
この天王道と旧第六天社(現川辺神社)とに挟まれた一画は、私の曽祖父が居住していた頃の通称「入り町」で、絵図では家が5軒ほどある。旧道からの文字通りの入り込んだ部分で、「入町」とも記した地は異形の区画を占めている。狭小ながら旧下河原として特異な部分をなし、クランク状の道の先には、天王社(祇園社)のほか、耕作地の中に千本への浜道が3本延びていた。
●下河原町の生業 宮町から下河原町にかけての住民の生業(なりわい)は、元々魚仲買の「五十集(いさば)衆」が多く、魚町や仲町などから移行して、商工業は活気を呈していく。古くは魚町に「魚座(うおざ)」とともに「魚河岸(うおがし)」があり、やがて大正から昭和初期にかけて宮町の「魚河岸」に魚市場が整備されると、問屋・仲買・小売りなど、関連の仕事への依存度が高まっていった。
下河原の千本浜での地先漁業は、古くにマグロ・カツオ・サバ・ブリなどの回遊魚を対象とした地引き網漁で、地元の天王社に因んで、網組名は「天王網」(しもあみ)(下網とも)である。祖父まではこの天王網組に所属し、下網は下河原を指す略称の「下(しも)」から来ている。やがて魚種も減って小規模となり、後に東西に別れてもいたが再統一され、現在まで継続している。沼津本町全体では明治中期に漁業を営む漁家が80戸程度にしか過ぎず、中でも五反田(ごたんだ)(市道) (いちみち)の人が多かった。魚町の小池屋を津元とした「小池屋網」とも言った「小池網」の網組が北側の市道の漁場を占めていたが、それでさえも半農半漁の生活を余儀なくされていた。
明治20年代において下河原の農家は小舟を持っており、河ロ一帯で手繰(たぐ)り網漁を共同で行ったり、狩野川の船倉(ふなぐら)からも船を繰り出して、千本浜で地引き網(天王網)などを20人から30人の漁師で引いていた。60戸ほどの集落では、漁業は農閑期に限られ、やがてお蚕(かいこ)さんを飼う養蚕(ようさん)業にカを注いでいくこととなった。
土地利用面を見ると、下河原や本町分の畑地では、養蚕が明治期に盛んとなって、明治20年代から戦前まで、狩野川寄りに蚕の飼料となる桑の葉を得るため、一面に桑畑が広がっていた。半農半漁の暮らしが続く中で、祖父が「入町」から妙覚寺裏に移転して、農業
で生計を立て始めていた大正末期頃には、下河原に郡是製(ぐんぜ)糸場も進出していた。現在の下河原団地付近にあり、地元から多くの女工が採用されて活気を呈していた。さらに昭和8年に「港湾地区」に掘込式の港湾(沼津港)がほぼ完成し、昭和10年頃からは耕地整理事業も進められた。
昭和30年代からは都市化が進展し、かつて「下河原野良(のら)」と呼ばれた土地も普通畑さえなくなった。現在の内港(ないこう)付近で低湿地が目立った港湾周辺の水田も、観音(かんのん)川 【子持(こもち)川】沿いから千本中町付近まで分散してあったが、埋め立てられて消滅している。
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