私の終戦 海野佳子
昭和20年2月3日、私は動員学徒として奈良の学校の寮から1年生150人で西舞鶴の海軍工廠へ向かうことになった。先輩は既に全員出動していた。
急な話で、指示されるまま、それぞれ自分の布団や教科書の類を全て布団袋に詰め、寮の別棟の大部屋に名札を付けて順序良く詰めていく。これからの生活に必要なものだけ持って国鉄奈良駅から京都駅へ。ここで山陰線に乗り換えて一路、未知の北国舞鶴に向かった。
京都ではパラパラの雪だったが、綾部を過ぎると雪景色は進むほどにドンドン深くなっていく。西舞鶴で下車。地元の人は2㍍の雪だと言っていた。改札から出ると目に入ったのは雪に埋まった家々の屋根と灰色の空だけ。雪空のどこかに太陽が隠れているのか、夜ではないようだった。
雪を削って人1人が通れるように、道が出来ていた。前の人の足元を見つめながら宿舎に到着。真新しい板張りの大きな建物が何棟か並んでいた。部屋割りも出来ていた。案内されて入った部屋に奈良の寮の同室の先輩が1人いて、肉親に会ったような安心感を味わった。
冬の真っ只中。奈良の冷たさも沼津とは比較にならないほど鋭く厳しいものだったが、日本海に面した雪国の冬は生まれて初めての体験で、言葉に表せない衝撃だった。暖を取るものはマッチの一本もなく、暖かな白湯一杯さえなかった。着たままで布団にもぐるほかになかった。
翌朝、工場へ出かける前、男物の黒長靴と大きな黒の洋傘を持って「これがなければ道は歩けませんよ」と係の男性は笑いながら1人1人に渡していた。工場に行くにも雪の壁を左有に見ながら一列になり、黙々と歩いた。
工場に着くと私達に割り当てられた仕事は、手りゅう弾の皮になる鉄を流し込む砂型作りであった。砂を詰める型があり、うまく形を保つように砂が出来ているのか、何百かの並んだ砂の型に男性の工員さんが真っ赤に溶けた鉄を柄杓状のものに汲み、次々と流し込む。翌日にはしっかり冷えて鉄は型通りのモナカの皮にように出来ていた。
その砂をきれいに払って作業は始まる。砂を外した皮を1つずつ組み合わせ、1人で抱えられないほどの木の箱に入れて出荷。毎日同じことを繰り返していた。
作業が終わると砂を払って寮に帰るのだが、衣類に残った砂を寮の入り口でしっかり落とし、それぞれ部屋に帰っても、暖を取ることもできない。
食べることより先に皆で浴室へ向かう。別棟に大きな浴室が出来ていたが、寮の皆が一斉に駆け込んで入るので、湯舟などは見えず人の頭の塊しか見えない。
どうして入ろうか、などと見ていたら夜中まで入れない。強引に割り込んで足を差し込み、徐々に押し込み、なんとか肩までお湯に浸かる。誰もが体の芯まで暖まってから出たが、よくケガ人が出なかったと思う有様であった。
トイレも別棟。窓には格子があるだけで雪は容赦なく中に舞い込み、1回毎に靴下はビショビショ。窓からどんどん舞い込んで来る雪蛍を払いながらの用足し。
洗濯には広い洗い場と干し場が軒下にしっかり出来ていたが、太陽が顔を出さないこの時期、氷気は切れるが乾かない。それを夜中に抱いて暖かくして着替えをしていた。
食事は三度三度頂けて湯気の上がる有難いものであった。主食はコーリャンを潰したお粥状のもの。おかずは舞鶴の海の幸。魚のあらを海水で炊いた栄養たっぷりの汁。2月11日の紀元節には薄紅色のお米のご飯で嬉しかった。
そんな生活の中、「欲しがりません勝までは」と張り切っていたが、体が悲鳴を上げてしまった。2月末、起きようとしたが目が開かない。体が動かない。這うようにして医務室へ行く。待つ時間も床に寝ていた。診断は急性黄疸。
関西の人で帰宅させられる人もあったが、私は帰ることもできず、大部屋に寝かされ、約1カ月間、治療を受けた。私と同じように十人ぐらいがゴロゴロ寝ていた。
許可が出て出勤した時には、あの大雪は殆ど消えて道路脇の小川に清らかな水が、明るい太陽に踊るように流れていた。自然界には苦しい暗い影はなかった。
5月に入り、手りゅう弾は使う場が無くなったと、新しい製作が一始まった。それまでのように砂で型を作り、今度は大きな細長い鉄、の塊が出来上がった。それは人間魚雷だということだった。大人1人が腹ばいになって操縦桿を握り、そのまま敵艦に当たり撃沈させる物体であつた。
仕組みの細かいことは分からないが、砂をきれいに払い、朱色の塗料で塗られた鉄の物体を見つめ、胸が締め付けられる思いで言葉を失った。
工員の1人が「これに入るのは動員学徒が多い。兵隊の訓練は受けていないが頭を使って操縦するから」と囁いた。思えば知覧の特攻隊も、このようだと聞かされた。
6月には休日がありクラスの3人で舞鶴の街中へ出てみた。何かお金を出して買うものがないかなと左有を見て歩いたが、チリ紙一枚も売っているものは無かった。値札と思われるものを付けて路上に並べられたものがあったので近づいて見ると、ヘチマのたわしと軽石が2、3個ずつ。
7月のある夜の8時ごろ、「空中戦だ」と叫ぶ声がして、慌てて外に出て空を見上げると、飛行機に向かって高射砲が撃ち込まれていた。全く当たらず2機の敵機は悠然と去って行った。
8月15日、仕事場に着くと、管理官の将校が「きょうの正午に大事な放送があるから場内の中央に集合して聞くように」と告げて急ぎ足で去って行った。正午、集まった工員と職員で放送を待った。
スピーカーから流れる声は雑音のようで殆ど聞き取れなかった。将校は「戦争は終わった」と吐き出すように.言うと、さっさとその場を去った。
皆、言葉も出さずボーっと立ちすくんでいたが、やがて人の輪は崩れた。日本は敗戦という形で、長い苦しい時代の幕を下ろしたのであった。
(南本郷町)
【沼朝2019年(令和1年)8月15日(木曜日)号】
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