狩野川台風 浜悠人
本年七月、西日本を襲った豪雨の被害が連日報道された。思い起こせば、この地に大きな被害をもたらした狩野川台風が襲来したのは昭和三十三年九月二十七日。今年で満六十年になる。
当時の記録によれば、昭和三十三年九月二十一日頃、グアム島東万洋上に発生した台風二十二号は、その後発達しながら西北進。中心気圧八八〇㍊(当時。現ヘクトパスカル)、中心付近の最大風速七五㍍、半径四〇〇㌔。以内は風速五〇㍍以上の暴風雨を伴う戦後最大の大型台風となった。
伊豆半島には台風の影響により、二十五日から雨が降り始め、二十六日には豪雨となり、台風の中心が伊豆半島に最接近した午後八時から十一時頃が最も激しく、湯ヶ島では九時からの一時間雨量が一二〇ミリに達し、総雨量は七五三㍉に及んだ。
狩野川では上流部の山地一帯で鉄砲水や土石流が集中的に発生。猛烈な洪水となり、堤防が決壊して広範囲に浸水が生じ、橋梁には大量の流木が堆積。巨大な湖を造った後、「ダム崩壊現象」を起こし、さらに大規模な洪水となって下流を襲った。
狩野川流域では破堤十五カ所、決壊七カ所、氾濫面積三、○○○㌶、死者・行方不明者八五三人に達した。
後に気象庁は、この二十二号台風を「狩野川台風」と命名、台風を地名で表現する第一号となった。
狩野川台風を報じた沼津朝日新聞によれば、市民は恐怖の一夜を過ごし、狩野川上流から約七〇〇人が流され、暗夜の濁流に救いを求める悲鳴が続く悲惨な情景を目のあたりにした。
狩野川は危険水位を二㍍超えた五・六㍍を記録し、黒瀬橋、新城橋、徳倉橋は流出し、ざらに三枚橋町、平町の国道、我入道などは水浸しとなり、床上浸水三〇四戸、床下浸水三〇五戸を出し、このため、沼津署は夜十一時過ぎ、狩野川沿岸住民に避難命令を出すとともに、全署員を非常招集し、救助、警戒に当たった。
新聞には、台風にからんだ幾つかのエピソードも報じられているので、紹介する。
・濁流に流された修善寺中の三年生を二十五㌔。下流の我入道不動岩付近で漁師が決死的に救助した。
・大仁町の小学六年の男の子が狩野川に流され島郷海岸に漂着し助けられた。
・修善寺中で当夜、妻子ある先生の宿直を代わってあげた沼津出身の若い教師が校舎もろとも泥海に流され、行方不明になった。
・精華高(当時。現沼津中央高)の秋鹿(重彦)校長は十一時に授業を打ち切り、全校生徒を帰宅させたが、列車が不通のため、帰宅できずに駅にいた生徒二十人を職員が学校に連れ帰り、校内に宿泊させ無事だった。
・駿河湾での遺体捜索は三十日も引き続き行われ、同日タまで四十二体が発見された。このうち身元が確認されたのは三十六体で、残り六体は我入道の仮死体安置所に置かれた。
一方、市立高三年生は、今日で言うボランティア活動のため、水害地の田方に出掛けた。初日は函南町の蛇ヶ橋で自衛隊と一緒になり、死体の捜索をした。蛇ヶ橋付近は流木の山で、生徒は竹の棒で、埋まったごみを突き刺し突き刺し、反応を見た。記録によれば、蛇ケ橋付近で収容した遺体は百六十体余りに上ったとある。
翌日は韮山、原木地方に出かけ、流木や土砂の片付け作業を実施した。わずか二日間の作業だったが、今思えば貴重な体験をしたものだと痛感する。
それから七年を経て昭和四十年七月、狩野川放水路は七百億円の巨費を投じて完成し、その後、二度と災害が起きていない。
(歌人、下一丁田)
【沼朝平成30年9月5日(水)号寄稿文】
0 件のコメント:
コメントを投稿