2016年1月17日日曜日

古桜と暁斎 浜悠人

古桜と暁斎 浜悠人

 古桜こと佐々木古桜は、京都生まれの大和絵画家で、武者絵を得意としていた。戦時中、沼津市干本緑町に住み、昭和二十(一九四五)年七月十六日夜から十七日早朝にかけての沼津大空襲に遭遇し、その体験を絵にした『沼津空襲画日記』には、画家でなければ描くことのできない詳細な描写と、さらに、それに脱明文が付されている。
 八月十日の項では『焼け跡の絵』に「鳴呼、緑町の焼け跡見るもの総てが思い出の種になる。なつかしい我が家の姿も消えて残るのはただ焼野原になった姿である。香貫山、鷲頭山が近く見える。~毎日の如く敵機が上空を飛んで時には爆弾や機銃掃射をして行く。~」と記されている。
 また絵日記から、三嶋大社に必勝祈願の奉納画を沼津大空襲の三日前に納めていることを知った。私は、さっそく三嶋大社の宝物館を訪ねた。二階入り口から突き当たった所に古桜の、源頼朝が家来から夜討ちの進言を聞いている絵が飾られていた。
 絵の事実は、治承四(一一八〇)年十月十八日、平家軍は平維盛以下四千余騎が富士川の西岸に陣を敷いていた。翌朝、夜討ちを待たずして浮島が原の数万羽の水鳥が一度に飛び立ち、その羽音に驚いた平家軍は戦わずして敗走してしまったというもの。ところで今にして思えば、古桜の絵日記と説明文は戦時中の沼津を知る貴重なデータであることを改めて知った。
 暁斎(きょうさい)こと河鍋暁斎は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、日本画家で、多くの戯画や風刺画を残している。自ら「画鬼」と称し、海外でも高く評価されている。
 明治元(一.八六八)年、徳川家が駿府に封ぜられるや、母と甥の芳太郎が江戸から沼津に移り住むようになり、暁斎も沼津と縁か結ばれるようになった。暁斎の息、宇田雨柳は沼津に住み、雨柳の次女が古桜夫人なので佐々木古桜夫妻にとって暁斎は祖父にあたる。
 昨年六月から九月にかけ、東京駅近くの三菱一局館で「画鬼暁斎展」が開催されていた。副題として「幕末明治のスター絵師と弟子コンドル」と書かれていた。展示品は暁斎の国内外の名品約百三十点に及ぶもので、他に弟子コンドルの作品も併せ展示されていた。
 ちなみに英国人建築家ジョサイア・コンドルは政府に招かれ、明治十(一八七七)年に来日、同十四(八一)年に暁斎の弟子となり絵を学び、暁英と号し、なかなかの腕前であった。
 本職の建築家として我が国に洋風建築を設計指導し、日本の近代建築史に大きな足跡を残した。旧東京帝室博物館、鹿鳴館、ニコライ堂などが彼の作品である。
 暁斎については、最晩年、ドイツ人医師エルヴィン・ベルツが「日本最大の画家」と評したほどの人気絵師となっていた。
 最後に、古桜と暁斎が奇しくも祖父、孫なる姻戚関係で結ばれ、沼津にかかわりがあるのに、いささか驚いた次第である。
(歌人、下一丁田)
【沼朝平成28年1月17日(日)寄稿文】

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