2016年1月17日日曜日
家康の隠居と泉頭
2015・11・3第1回清水町・泉頭歴史文化フォーラム
「徳川家康の隠居と『泉頭』」 大嶌聖子
〈講師略歴〉
1968年生まれ。国学院大学大学院文学研究科を経て、現在、東京大学史料編纂所研究支援推進員。専門は戦国時代~江戸時代。最新の論文は「『家忠日記』の存在しない一日」(『無為&無為』26号、2014年)、家康の研究に「徳川家康の隠居一最晩年の政権移譲構想一」(『日本歴史』702号、2006年)ほかがある。
最新の書籍(共著)日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線ここまでわかった「天下人」の実像』(洋泉社2015年)がある。
はじめに(家康の隠居を考える前提として)
1 当時の隠居とは?
2 大御所としての家康
3 本光国師日記について
Ⅰ 隠居場所の選定~家康、泉頭を選ぶ~
Ⅱ 場所の変更~急遽、場所の変更~
Ⅲ 変更の理由~なぜ変更になったか~
主要登場人物
1徳川家康 一五四二~一六一六 75歳
2以心崇伝 一五六九~一六三三 47歳元南禅寺僧侶、側近
3板倉勝重 一五四五~一六二四 70歳京都所司代
4藤堂高虎 一五五六~一六三〇 59歳築城の名手、津藩初代藩主
5本多正純 一五六五~一六三七 50歳家康の側近の第一人者
6竹腰正信 一五九一~一六四五 24歳側近、母はお亀の方(家康側室)
史料(現代語訳)「本光国師日記」*すべて以心崇伝から板倉勝重へ宛てた書状
[書状1]元和元年十二月十七日
来年は伊豆三嶋へ御隠居をされるとのことですので、方角などのことを御尋がありましたから、詳しく申し上げました。来年、東は格別によい方角であるとおりに申し上げました。これについても御機嫌よくおいででした。場所泉頭ということです。三嶋のきわにあたるということです。
[書状1の原文]十二月十七日付
来年者、伊豆三嶋へ可被成御隠居旨ニ候間、方角以下御尋候故、具ニ申上候、来年東ハ一段と能方ニ而御座候通申上、是又御機嫌能御座候、所をは、いつミかしらと申由候、三嶋のきわにて御座候由候、
[書伏2]十二月十九日
一昨日の書状にも書きましたように、間違いなく伊豆泉頭が隠居所に定まるということです。
[書状3]十二月二十二日
伊豆三嶋泉頭は、間違いなく御隠居所に決まりました。来春早々から御普請を仰せつけられるということです。御普請は、日用で仰せ付けるという家康の指示です。(家康の)御子様たち、尾州衆などは、内々に御普請の用意をしていると、こちらではうわさになっています。
[書状4]元和二年正月二日
伊豆御隠居所の御普請は、日用で仰せつけられるということです。
[書状5]正月四日
一、(中略)来月初頃に、伊豆御隠居所の御屋敷の縄張りに出向かれるということです。(中略)
一、伊豆の御普請は間違いなく日用に仰せ付られるということで、日用に大将などが当地へ出向こうという詮索の最中です。藤堂高虎は、相応の御普請を行いたいということを色々と訴えているということです。いずれにしても、石垣などは、日用では出来上がらないということです。諸大名衆も、石場などを内々に下見されているということです。
[書状6]正月六日
昨日五日に、近所へ御鷹野に出かけられました。御機嫌よく戻られ、私を奥へ呼ばれ、本多正純と出仕しました。泉頭の縄張りなどの日取りのことについて御尋があり、すぐに考えを申し上げました。正月十九日に御鍬、初で、十七日に出発し、泉頭へ御成をするお考えでした。いまだ駿府では、右のことは誰も存じていません。心得としてお伝えしました。
[書状7]正月八日
一、上様は十五日か十七日に当地を出発され、豆州泉頭へ御成をされ、十九日に縄張と鍬初を指示されたということです。
[書状8]正月十三日
伊豆泉頭御普請のことは、以前の書状に度々様子を書きました。ところが、昨日の御定では、泉頭は場所もよくないので、選ばないという仰せがあり、中止になりました。竹腰正信の屋敷を今日十三日が吉日であるので、清水が出るか試掘させるように、仰せ付けられました。おおよそ駿府に後々までもおられる様子に聞こえてきました。
[書状9]正月十四日
十三日の手紙でお伝えしましたように、泉頭の御普請は中止になりました。当地の竹腰正信の屋敷にお移りになられることが決まり、はやくも昨十三日に屋敷の絵図が出来上がって中井正次が召し出されて、家屋の設計図など仰せつけられました。
[書状10」正月二十一日
一昨日十九日に竹腰正信の屋敷へ御成をされ、縄張をされました崇伝自身も出向きました。
【本光国師日記ほんこうこくしにっき〈国史大辞典より抜粋〉】
京都南禅寺金地院の僧以心崇伝(円照本光国師)の日記。慶長十五年(一六一〇)三月から寛永十年(一六三三)正月まで。四十七巻四十七冊。原本は金地院所蔵(重要文化財)。まま近侍の僧が代筆した部分もあるが、大部分は自筆と思われる。日常身辺のことも記されているものの、この記録の基調的性格は、原題が『案紙』であることからもわかるように、武家・寺社などからの書状と、崇伝がこれらに出した書状の留め書である。第一冊は慶長十五年三月七日付で徳川家康の側近の第一人者本多正純に充てて「昨夕罷り下り候」と駿府下着を報告する書状で始まっており、このことは五山僧としての学識を買われて家康の側近となるにあたって、崇伝自身がその役割を充分に意識して、この記録をつけ始めたことを示すものと評価されよう。事実、家康の死後しばらくまでは、寺社行政に関することだけでなく、大坂冬の陣直前の関東・大坂間の交渉の顛末、『公家諸法度』『武家諸法度』の起草など政治的重要事件についても、欠くことのできない情報をこの記録は提供している。全文翻刻は『(新訂)本光国師日記』(続群書類従完成会)がある。
【参考文献】
大嶌聖子「徳川家康の隠居ー最晩年の政権移譲構想ー」『日本歴史』第702号、二〇〇六年
大嶌聖子「近世初頭大名細川家の情報収集ー徳川家康隠居への対応ー」『地方史研究』第327号、二〇〇七年
家康時代の「泉頭」に思い
清水町で歴史フォーラム
清水町と町教委はこのほど、「第1回清水町・泉頭(いずみがしら)歴史文化フォーラム」を町地域交流センターで開いた。徳川家康公顕彰400年記念事業。約200人が集まり、「泉頭」(清水町)で晩年を過ごそうと考えていた家康の時代の歴史に思いをはせた。
東京大史料編さん所研究支援推進員の大嶌聖子さんが「徳川家康の隠居と泉頭」をテーマに基調講演した。泉頭は現在の柿田川公園周辺を指す地名。家康が隠居の地に選んだものの、駿府にとどまったまま亡くなった理由などを解説した。
大嶌さんは家康の側近が残した資料を紹介しながら、「家康は1615年に泉頭への隠居を決めた」などと説明し、家康が隠居しなかった理由については「財政的な問題や家臣らの反応が悪かったことなどが考えられる」と述べた。
「歴史を未来に活(い)かす」をテーマに、大嶌さんら有識者によるパネル討論も行われた。
【静新平成27年11月11日(水)朝刊】
家康が隠居所に考えた泉頭城
未完に終わり幻のプロジエクトに
今から、ちょうど四百年前の元和二年(一六一六)一月、時の天下人であった徳川家康が最後の大プロジェクトに取り組もうとしていた。現在の柿田川公園(清水町伏見)一帯にあった泉頭(いずみがしら)城を修築し、隠居所として余生を過ごそうというものだったが、未完に終わった。この幻のプロジェクトに関する講演会が昨年、清水町主催により同町地域交流センターで開かれた。
余生の地として特別に選定
沼津市、清水町で周辺の魅力創出
講演を行ったのは、東京大学史料編纂所の大嶌聖子氏。大嶌氏は、江戸幕府初期の政治体制などを専門に研究している。今回の講演は、家康側近だった以心崇伝(*)が残した「本光国師日記」の記述を中心に進められた。
天下人と隠居大嶌氏は最初に、当時の隠居の概念について解説。
戦国の世を制して天下統一に突き進んだ織田信長や豊臣秀吉は、死ぬまで権力者の座にあったが、晩年は形式的には隠居状態にあった。信長は嫡男の信忠を織田家の当主とし、秀吉は甥の秀次に「関白」の職を譲った。
当時の隠居とは、完全リタイヤではなく、政治的な役割を後継者と共に分担することを意味していた。
徳川家康も征夷大将軍に就任して幕府を開いた後に将軍職を子の秀忠に譲り、江戸城を出て駿府城(静岡市)に移っている。しかし、家康は秀忠には政治権力の一部しか譲らず、朝廷や豊臣家との交渉など重要事項に関する権限は依然として握っていた。
ただ、家康は信長や秀吉と違い、生前中の完全リタイヤを決めていた。大坂夏の陣が終わり豊臣家が滅亡した元和元年(一六一五)、政権運営の障害がなくなった家康はリタイヤ生活の開始に踏み切り、その住みかとして選んだのが泉頭城だった。
泉頭城 戦国時代の後期、甲斐国の武田氏が駿河国を領有。その東には関東の大大名である北条氏の勢力圏が広がり、黄瀬川が双方の境界線となった。そして、北条側にとっての国境防衛拠点の一つが泉頭城だった。
北条氏が滅亡すると、泉頭城は廃城となっていたが、家康は城跡を修築して再利用することとし方角の吉凶を崇伝に占わせている。
「本光国師日記」によると、元和元年十二月十七日に崇伝が方角に関する諮問に答え、二十二日に泉頭城への移転が正式決定された。
年が明けて一月六日には建設工事の日程が決まり、十九日に鍬入れ式を行うとされた。
しかし、十三日になると事態は一変する。泉頭城への移転計画は中止され、家康は、それまで暮らしていた駿府城内にある家臣の屋敷を改装して隠居所とすることを最終
決定した。
二つの「なぜ?」 家康が泉頭城を選んだ理由と、計画が最終的に中止された理由は何だったのか。
大嶌氏によると、選定理由の一つとしては柿田川湧水の存在があるという。最終的に隠居所として決定された駿府城内の屋敷では、清浄な水を求めて井戸の試掘が行われていて、家康が水にこだわっていた様子がうかがえる。
そして、計画が中止された理由については、従来は、その数カ月後に家康が死去したことが理由とされていたが、大嶌氏によると側近達の猛反対が最大の理由だという。
家康は泉頭城の改修工事を、自己負担で労働者を集めて行わせようとしていた。江戸城造営などの大規模工事は全国の諸大名に命じて費用や労働力を提供させていたので、それまでの方針と大きく異なる。
家康が自己負担で工事を進めようとしたのは、泉頭城はプライベート空間だったので、大名達に負担をかけることを避けようとしたからだと見られている。
しかし、この方針には「待った」がかかった。当時随一の築城専門家であった藤堂高虎という大名は、石垣の建設など高度な技術が必要な工事は、にわかに集めた労働者には難しいと指摘。それに呼応してか、大名達の間には、工事協刀の準備を進める動きも出始めた。
そして、駿府城で暮らしていた家康に仕える側近グループからも、移転計画そのものに対して異論が出るようになった。
こうした状況を踏まえ、家康は最終的に泉頭城への移転計画を断念。駿府城内の新隠居所建設計画が始動した数日後、家康は鷹狩りに出かけた際の食事で食中毒になって体調を崩し、その数力月後に死去した。
新隠居所が完成したかについては、記録がないという。
終わりに幻の泉頭城移転計画について解説し終えた大嶌氏は「泉頭は、家康が余生を過ごすために特別に選んだ土地。この事実は地域の人々にとって大きな誇りになるのではないか。まちを自慢できることが、まちおこしにつながる」と述べ、歴史を学んで地域活性化につなげることへの期待を示した。
講演を最後まで聴講した清水町の山本博保町長は「住民が生活しやすいまち、美しい環境のまちを目指し、この動きを県東部に広げたい」と話した。
沼津市の取り組み 家康が泉頭城を最後の安息の地として選んだ史実は、沼津市も活用の意向を示している。昨年策定された「沼津市まち・ひと・しごと創生総合戦略」では、「海と水辺を活かすぬまづの宝の顕在化」事業の一環として、家康ブランドによる柿田川周辺の魅力創出を清水町と連携して進めることになっている。
(*)以心崇伝(いしん・すうでん)=金地院(こんちいん)崇伝の名でも知られる。臨溶宗の僧侶で、家康の顧問を務めて政治上の補佐を行った。大坂夏の陣のきっかけの一つとなった「国家安康」の釣り鐘事件の黒幕とされる。
【沼朝平成28年1月17日(日)号】
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