2023年5月7日日曜日

千本松原

 



 千本松原

 沼津駅の入口右の方あり。名所にして平維盛の嫡子六代御前の旧跡なり。吾嬬路記に云。千本松原、南の方海つらに有。元いなさ寺と云精舎ありける地也とそ。今も観音堂有。昔頼朝卿平家追討の後、小松殿嫡孫六代、此松原にて切れんとせしを、文覚上人頼朝に乞請て助し所也。ちもとの松原とて名所也。六代はそのご、又逆心有て鎌倉多古江河の東にて誅せられたり。其所に塚有と云。

 東鑑巻之第五文治元年十二月之条曰。十七日上略。三位中将惟盛卿嫡男。字六代。今レ乗レ輿被レ向ニ野地一之処。神護寺文学上人称レ有ニ師弟眤。申請北条殿云。須レ啓ニ子細於鎌倉。待。其左右之程。可レ被ニ宥置。ト云又曰廿四日癸酉文学上人弟子某。為ニ上人飛脚参申云。如此小生者。縦錐レ被ニ赦置有ニ何事哉。中略。彼者為ニ平将軍正統雖少年争無ニ成人之期哉。尤難レ測ニ其心。但上人申状又以非レ可ニ黙止。進退谷之由被レ仰。云。東行筆記に。長門本、平家物語を引て。正治元年二月文覚上人の猪熊の宿所へ押寄せて六代御前を召取関東へ下し、駿河の国の住人岡部三郎太夫好康承りて、千本の松原にて斬りてけり。十二歳にて北条四郎時政の手にかゞりて、爰にて斬れ給ふへき人の、今年廿六迄生たまひける事は長谷の観音の御利生なり、終に駿河国千本の松原にて切れ給ふ事も、先世の宿也とあわれなりし事ともなりと見ゆ。東路塩土伝に云。松原の中に観音堂有。この像南海より出しとや、林中に老松一株有、六代松と云と誌せり。海道記に云。

千本の松原と云所有。老のまなこは極浦の浪(なみ)にしほれ。朧なる耳(ママ)は長松の風にはらふ。晴の天の雨に翠蓋の笠なれども袖をたくらず。砂の浜の水には白花ちれとも風をうらみず行々跡を帰りみれば、前途いよゝゆかし。

 車返里旧跡(くるまがへしのさとのきゅうせき)

 駿州名勝志に云。今の沼津の駅三枚橋町なり。東鑑に駿河国大岡牧及車返牧御所なと云る、皆ここ也と云。海道記、東関記行等に是を戴て詠吟もありと云ども、沼津の駅の図を略せし故、伝説等をも愛にもらしぬ。

 

{ 『駿河記』に「千本公林、松林数享保二年改五千八百七十五本。長五百八拾八間、幅七間半、官道より、凡三町。往古より名高き所にて、千本の松原と云。意は原駅の辺より沼津の浜方面の松原の惣称なりしにや。今は沼津の浜方の松原を云也。」とある。『延絵図』にも沼津から原辺りの海岸に千本松原、千本御林、新御林と記されている。

 図は東間門村あたりの街道で、先方が東方である。街道沿いの水田の向こうに見える松林が千本松原で、図の中央に竹林を柵で囲み、左手に門らしき物が見える所が妙伝寺、その向こうの松林が「六代御前旧林」で、詞書に見られる六代(平維盛の子)が処刑され、首級を埋められたとされている。なお、詞書に見られる「車返里旧跡」は沼津宿三枚橋町である。本図とは直接関係はない。(東街便覧図略)


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