◆沼津ヒラキ物語⑨
「変質・変革化への道」 加藤雅功
●鉄道貨車からトラック輸送へ 後発組の沼津にとって、成長・発展期は「変質・変革期」でもあった。明治21年(1888)3月起工の国鉄の蛇松(じ ゃまつ)線から分岐(ぶんき)して、昭和20年2月に「沼津港線」が開業している。鮮魚やヒラキ等の加工品を東京・大阪方面へ出荷し、約3㎞の運転区間を、多い時には1日4往復していた。鉄道輸送の時代には主に九州方面のアジのほか、他の漁業地の魚を原料にしてヒラキを盛んに作って来た。昭和41年頃でも蒸気機関車で牽引(けんいん)されてきた白塗りの有蓋(ゆうがい)貨車が、旧魚市場沿いのホームに着き、半トロの箱で積載された氷詰めの原料魚(1箱で16~17㎏)が入荷し、大量に荷揚げされていた。やがてディーゼル機関車に変わり、その後港に漁船で直接「水揚げ」する以外の「陸送品」はトラック輸送に置き換わった。中型から大型へ、さらにはトレーラーの冷凍車・保冷車に変化し、昭和40年代半ば以降の高速輸送と高速道路網の整備もあって、技術革新の中で生産・流通ともに急激な変化をもたらした。
昭和30年代半ば、仮の出荷ターミナルとして下河原(しもがわら)に「干物集荷所」があり、当時各商店は出荷物をリヤカーに積み、オートバイで牽引していた。夕方には出荷のために荒縄(わらなわ)で梱包(こんぱう)した木箱が、うずたかく置かれていた。ヒラキを30枚か40枚ずつで4段(四合せ)から6段(六合せ)重ねにし、蓋(ふた)をして出荷先ごとで区分けされていた。オート三輪車や中型の近鉄第一トラックなどに積み込まれ、一旦貨物ターミナルに集積して、その後東京や横浜方面に鉄道で運ばれた。
やがて集荷所は港湾側に移転し、木箱での出荷から昭和44年に発泡スチロール箱が導入され、断熱性があり、より鮮度を保つことが出来る、冷凍庫による急速冷凍が可能となった。衛生的で便利な箱を重ねて入れる段ボール箱に代わり、軽トラックから普通トラックでの輸送となった。その後、平成8年には蛇松町の沼津魚仲買商協同組合の大型冷蔵保管庫(立体自動倉庫)の「ビッグボックス」が整備されたほか、千本港(せんぼんみなと)町の中央運送前など複数の出荷ターミナルを経た、長距離トラックでの輸送に大きく変わっていった。
●原料産地の遠隔地化 昭和40年代後半でも、駿河湾や銭州(ぜにす)周辺の近海物のアジが魚市場に揚がった時、生
の魚がトロ箱で着くと手鉤(てかき)で捌(さば)く作業も心地好く、生の魚はヒラキ包丁で開き易(よ)かった。生での水揚げから冷凍物に変わると長い解凍時間が必要になり、近海物も遠くなって日本海・東シナ海に、昭和50年代には北海など輸入物が急増した。今や東シナ海中心よりもヨーロッパの北海周辺国(オランダ等)が多くなっている。
以前は夜中の3時過ぎから冷凍の原料を解凍する作業があり、十分に解凍しない段階から魚を包丁で開き、冷たい魚を扱うため、凍(こご)えそうな手を近くに用意した金ダライやボウルの湯に漬ける日々が続いた。
今なら朝5時位であろうが、魚河岸(うおがし)での「競(せ)り」で競り落とした後で、買い付けた原料のトロ箱を積載したトラックで戻って来る風景さえ無くなった。冷凍の原料魚(原魚)についても、前日に業者により段ボールで包まれた箱で運ばれ、仕込み作業も軽減されて、夜中に水を当て、自然解凍することが普通となっている。
かつては氷で凍結した中にアジやムロがあり、今では実施しない漬(つ)け桶(おけ)で一部を解凍しても、大半はコンクリートにブロックごと叩(たた)き付ける荒技も多く、朝早く周囲に叩き付ける音が響いており、一部では木箱以上に中身の魚も傷(いた)んだりした。また夏場は良いが、冬場は加工場も寒く、凍(い)て付(つ)く中での加工作業が黙々と行われた。現在では漁船内の漁獲物は瞬間急速冷凍が当然で、入荷後は冷凍冷蔵機械から集中管理システムに至る近代化が進捗(しんちょく)し、複数の大型冷凍冷蔵庫や巨大な保管庫が建設・整備されて、今や隔世(かくせい)の感がある。
その後消費者のニーズが変化し、乾燥の緩(ゆる)い「生干し」や「塩分少なめ」が多くなり、また「沼津方式」で先行した凍結干物では、全国に販路(はんろ)を広げている。ヒラキの身の丸みは大切だが、アゴを残さない、頭を割らない、骨が見えないように肉を薄く付ける注文もある。近年「多様化」が進み、扱う干物の対象が多種類になる中で、口も割く、従来ならば出荷されなかった頭のないもの、大型の魚に限られるが割裁機(かっさいき)を用いた半身の干物、さらに片側の骨の部分も抜くほか、一部では早くから存在する臭みを消すために茶葉を使用する例もある。
●加工場の拡大・分散化 昭和50年代を経て、バブル後の変革期は閉塞(へいそく)感が漂(ただ)い、展望が開けないで廃業が増加する。発祥(はっしょう)地の下河原地区は衰退し、港湾地区でさえも空洞(くうどう)化が進む。昭和50年代に下香貫(しもかぬき)や志下・静浦(しずうら)方面に拡散するが、その背景としては不漁などで原料のイワシの確保が困難になり、高騰(こうとう)化により「削り節加工」の工場からの転換が急増したことが大きい。また冷蔵庫などの維持管理費が高騰し、平成に入っても投機的な側面から儲(もう)けに走る業態でもあった。原料の魚を安く仕入れ、製品として高く売る利潤(りじゅん)追求型ゆえに、元々バクチ的な要素がある。利益を上げた時期の夢を追い、雪だるま式に借金が膨(ふく)れ、原魚の保管代や資金繰りが悪化し、今や大型冷凍冷蔵庫や先行投資の負担増から廃業する商店が増加している。隆盛期に「沼津ひもの加工組合」の加盟数は100軒を優に超えていたが、今では3分の1程度に減少した。なお登録の対象は広域となるが、「沼津ひものの会」には76の商店が加盟している。
また3K企業の側面もあり、人手不足に対しては外国人労働力の導入も早くから進んだが、代替わりや後継者問題もあり、商売に見切りを付ける家が増加した。「仲買株」を売却したり、競りなど魚の買い付けや出荷を代行に頼る、下請(したう)けの「賃開(ちんひら)き」が増加し、利益がより少なくなって廃業に追い込まれた家も数多い。新しい動向としては、内港周辺の観光地化が進み、小売り面を中心に活路を見出しつつある点である。
沼津は日本一の干物生産量(3割以上)を誇り、取り扱い高(製造)の大量が創意工夫と新機軸を生み出した。技術力を高め、製品開発や専門特化を推進し、他地域とは差別化を図って今日の地位を築き上げている。
またアジは金国の7割近くを占めていたが、近年ではかつての寡占(かせん)状態から市場占有率が大きく後退している。一方、海外も含めて新興生産地の拡大が続き、九州・山陰などの水揚げ漁港周辺では、現地生産化も進んでいる。〈完〉
(沼津市歴史民俗資料館だより2021,3.25発行 Vol,45No.4(通巻229号)編集・発行 〒410-0822沼津市下香貫島郷2802-1沼津御用邸記念公園内沼津市歴史民俗資料館 丁ELO55-932-6266FAX955-934-2436)
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