2021年3月30日火曜日

絵葉書に見る旧永代橋(えいたいばし)

 

 沼津市歴史民俗資料館 資料館だより

Vol.45No.4(通巻229)2021.3.25(4回発行)



絵葉書に見る旧永代橋(えいたいばし) 国立公園富士 暮れ行く沼津の富士旧永代橋は、明治16(1883)に港橋(みなとばし)の下流の狩野

川に沼津町新町と上香貫村吉田を結ぷ木橋として、足助(あすけ)圭山を発起人(ほっきにん))とし、その同志等により賃(ちん)橋として新設架橋(かきょう)された入船橋(いりふねばし)が前身とされる。

 この入船橋は、明治29(1896)の大水により流失、明治33(1900)仲町の新居半十郎が1万有余円の私財を投じで再架橋したとされる。

 この時、沼津御用邸に行啓・滞在していた御成婚直後の皇太子嘉仁親王(よしひとしんのう)(後の大正天皇)と節子(さだこ)妃(後の貞明(ていめい)皇后)の両殿下(でんか)が渡り初めを行い、その慶事を永

代に記念するため「永代橋」と改称したとされている。

 その後、明治40(1907)43年の一部流失、大正3(1914)の全部流失などがあったがその都度復旧されている。

 大正12(1923)に架橋免許人(かきょうめんきょにん)真野氏他2名から沼津町と楊原村に寄付され、橋賃は廃止された。同年に木橋として全面改修を計画するもコンクリート橋に変更され、大正15(1926)1月に着工、昭和元年12月に開橋した。これが絵葉書の旧橋である。

 その後、左岸側の川幅の拡幅により延長し、昭和13(1938)の出水では中央部の橋脚(きゅうきゃく)が破損(はそん)し、その後仮橋(かりばし)も流失して一時は渡船(とせん)となり、18年に復旧した。

 昭和62(1987)にその役目を終え、平成2(1990)に現在の永代橋が竣工した。旧永代橋には、モダンな意匠(いしょう)が施されており、橋桁(はしげた)両端の親柱(おやばしら)は大きくて凝(こ)った形をしており、上端には照明が埋め込まれている。橋桁の高欄(こうらん)には、正式にはその後の昭和2(1927)に制定された、松葉(まっば)と片仮名(かたかな)の「ヌ」をデザインした沼津市の市章を模(かたど)った鉄柵がはめ込まれていた。残念なことに、この鉄柵は戦時中の金属供出(きうしゅつ)により撤去(てっきょ)されてしまった。

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