東海道原宿を往く 浜悠人
原宿は東海道五十三次の宿場町で品川から数え十三番目に当たる。名称は浮島ヶ原の中にあったことから「原中宿」から「原宿」と呼ばれるようになった。東は片浜、北は浮島、鷹根(現愛鷹)の各村に接し、西は吉原に連なり、南は駿河湾に面し、東西にわたる横長の地形(通称ふんどしと呼ばれる)から成っている。
徳川家康は慶長五年(一六〇〇)の関が原の勝利により事実上、天下取りなるや、翌六年、東海道五十三次の駅制を定め、また伝馬の制度も確定していった。
当初、原の宿場は旧国道1号(千本街道、旧甲州道)に面した辺りにあったが、慶長十六年(一六一一)七月七日夜の高潮により人家や施設が流されたので旧宿場を放棄し、北に向かって街道を移し現在の街道が出来たと言われる。当時、街道の北側にあったお寺が、現在、一様に通りの南に位置しているのも、そんな訳があったのかと推察できる。
原宿が東海道五十三次の宿駅になったのは寛永十年(一六三三)で、宿駅の中では一番遅かった。原宿が自然災害により移動したのが遅くなった一因ではなかろうかと思われる。それまで沼津宿と吉原宿の「間(あい).の宿」として原宿の存在価値は高かった。
宿場町は東から「大塚町」「原東町」「原西町」の三町からなり、正徳六年(一七一六)の記録によれば、大塚町の石高は五百七十六石余、人口四百五十三人、原東町は四百二十四石余、四百十三人、原西町は五百五十一石余、六百八十三人と記され、宿には本陣、脇本陣があり、旅寵屋(はたごや)二十五軒から成っていた。 街道入り口の「大塚町」は昔、この地に大きな塚があったことによる。新田開発で三本松新田、大塚新田、大塚本田の地名が残る。町内の清梵寺は、お地蔵さん、長興寺は金毘羅さんと呼ぼれ、それぞれ由緒ある縁起を持っている。
お寺が南側にあるのに比して神社は街道の北側にあり、神明宮や秋葉神社、大楠のある高木神社と並ぶ。
次に、「原東町」には白隠さんで有名な松蔭寺や天神さんと呼ばれる西念寺がある。四月、沼川堤では提灯の下、白隠夜桜見物が楽しめる。町内の白隠の道をたどれば「白隠誕生地の碑」や「産湯の井戸」があり、新たにお堂も建てられている。
「原西町」には江戸時代、東海に名を馳せた植松家の帯笑園があり、その由来の説明板に「植松家は江戸時代はじめに当地に居を定め、代々花卉(かき)に興昧を持ち国内はもとより外来の園芸植物等を収集し花長者(はなちょうじゃ)と言われていた。東西文化の交流が盛んになった江戸中期には園芸植物の鑑賞に多くの文人墨客、公卿、大名諸侯が訪れるようになり文芸文化の交流の場となりました。約三千坪の園内には盆栽、蘇鉄、桜草、松葉蘭や万年青(おもと)などが展示されていました。その様子は帯笑園を訪れたシーボルトの『江戸参府紀行』にその庭の美しさと豊富な種類に感嘆したと記されています。・・・・」。
町内には渡辺家の本陣跡や七面さんの昌原寺、子安さんの徳源寺があり、北側には原浅間神社がある。神社入り口には「江戸時代、幕府・大名が法令や禁令を板札に墨書した高札を掲示した所を高札場という。原宿の高札場は、この浅間神社前にあった。規模は高さ一丈(じょう)、巾一間、長さ二間五尺あった」と写真付きの説明板がある。
駅前公園には原尋常高等小学校跡碑、近くには明徳稲荷があり、建立は本能寺の変の翌年、天正十一年(一五八三)と記されていた。
原宿の西境の見付(番所)外に六軒の民家があったことから、ここは六軒町と呼ばれた。町内の浅間神社には原停車場記念碑が見出される。
ここまでで「原宿」は往き着いたが、勢い余り、さらに西に進むと、第二昭和放水路の西には慶長年間から開発された新田の「一本松新田」「助兵衛新田」「植田新田」と連なる。
一本松の呼称は古い一本の松があったことによる。町内の浅間神社には共進学舎碑がある。羅漢さんと呼ばれる大通寺門前には岡野喜太郎の「少時止宿勉学之寺」の碑があり、明治四年七月から同六年三月まで本堂に泊まり、初学舎で学んだと刻まれていた。
助兵衛新田は、今は「桃里新田」と呼ばれ、この地の浅間愛鷹神社には鈴木助兵衛父子が元和元年(一六一五)ここを開拓し、明治四十一年、桃の産地となり、知事の認可を得、桃里と改称した。記念として「開關(びゃく)四百年、改称百年の碑」が建っている。
旧東海道と東海道本線が交わる辺りを植田と言い、近くに植田三十郎の墓や神護寺跡地がある。神護寺は廃寺となり、町名は開拓者の名を植田となる。明治二十二年、町村制施行により、大塚町、原東町、原西町、一本松新田、助兵衛新田、植田新田が一つとなり、原宿の呼び名を継承し原町と名付けた。昭和四十三年、原町は沼津市と合併し今日に至っている。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和2年9月1日号寄稿文】
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