2019年9月12日木曜日

水の制御技術 土屋詔二


水の制御技術 土屋詔二
 八月一〇日の沼津史談会「沼津ふるさと講座」で、狩野川仲町右岸の石積みの「出し」が取り上げられた。
 私は初めて聞く話だったが、仲町の医師、高田好彦先生が本紙に書かれた記事を元に、史談会の匂坂信吾会長と長谷川徹氏が現況と関連資料を紹介した。甲州流水制の一種だろうというが、今後の調査成果が楽しみだ。
 甲州盆地の春はピンクに染まり、桃源郷の趣になる。ブラタモリのお題は、三つのプレートがせめぎ合う「ミラクル盆地は試練がいっぱい」だった。
 第一の課題は水の制御である。笛吹川、釜無川、御勅使川等の扇状地河川は、流路が定まらず氾濫しやすく、保水性も小さい。甲州流治水は水害を軽減し、水の恵みを享受するための技術の体系である。
 一番の難所は釜無川と御勅使川の合流個所だった。信広は四川省岷江の都江堰をモデルにして、信玄堤と呼ばれる不連続堤を軸に難題を解決した。都江堰は世界遺産であるが、今なお現役の重要施設である。遣明使の天竜寺の僧策彦周良が学び信玄に伝えたという。
 田方平野の開発にも甲州流が活用されている。狩野川は大見川が合流する修善寺橋付近から流れが緩やかになる。蛇行して氾濫を繰り返し、上流の肥沃な土を堆積した。この土地を開墾したのが、戦国の敗者として伊豆に流れてきた武田の家臣たちだった。霞堤や雁金堤と呼ばれる不連続堤を築き、洪水の制御と内水の排除を両立させて美田に変えた。
 一九五八年の狩野川台風の被害は、上流部の山地一帯で発生した鉄砲水や土石流による大洪水が原因である。台風は伊豆半島のすぐ南を通過したが、湯ヶ島で一時間120㎜、総雨量753㎜というまさに記録的な降水量だった。
 徳川家康は一五九〇年に関八州に入封された。当時は小田原か鎌倉を拠点にすると思われたらしい。しかし家康は近辺に利根川、荒川が流れ、舟運路の開発により関東圏だけでなく、東北圏も組み込める江戸を選んだ。
 江戸に入ると、いち早く行徳の塩を運ぶ小名木川を開削し、生活必需品=戦略物資の確保に動いた。国土経営の眼力に敬服する。
 徳川臣下の伊奈氏は、忠次・忠治・忠克の三代かけて、利根川の流れを太平洋に東遷させた。
 文明は大河川の周辺で生まれたと言われるが、生活や生産が高度化すれば、水害の被害も大きくなる。寺田寅彦流に言えば「文明が進むほど災害は激化する」。
 水の制御には、上流と下流、右岸と左岸、高水(洪水)と低水(水利)など、さまざまなトレードオフ関係がある。その調整は公共の原点だろう。
 中国最古の夏王朝の始祖・禹は、治水王だった。日本にも約百基の禹王碑がある。国土地理院は新たに自然災害伝承碑の地図記号を作ったが、地域史と災害史は不可分である。水の制御技術はまさにシビル・エンジニアリングの名に相応しいのではなかろうか。
(高島本町)
【沼朝令和1912日「言いたいほうだい」】

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