「慰霊の旅 広島・長崎」 浜悠人
島駅から路面電車に乗り原爆ドーム前で降り、被爆当時のままの姿を残す残骸は旧広島県産業奨励館で、現在は世界文化遺産に登録されている。
思えば、昭和二十年八月六日午前八時十五分、原爆は、この建物の上空六〇〇㍍で炸裂し、爆心直下となった。この一帯は約三千度から四千度の熱線に焼き尽くされ、凄まじい爆風と放射線が発生、この場所にいた、ほとんどの人は瞬時にして亡くなった。
広島は、たった一発の原爆により二十万人を超える生命が失われ、半径二㌔に及ぶ市街地が廃墟と化した。ドーム近くには動員学徒慰霊塔があった。戦争末期、「学徒動員令」により全国の中学生(現高校生)や高女生が工場、農村や、空襲による延焼防止の建物撤去に勤労動員させられた。慰霊塔は動員中に空襲や事故で亡くなった生徒の霊を慰める目的で昭和四十二年に建立された。
塔を囲み、動員作業を表す食糧増産、縫製作業、工場労働、灯籠流しの四つのレリーフが刻まれ、その裏に戦没した動員学徒が通っていた343校の校名が刻まれていた。
静岡県は62校で、静岡中、浜松工、掛川女、沼津女などの校名が目に入った。沼津女とは沼津高女と思われるが、その生徒も当時、動員させられた沼津海軍工廠で亡くなったのではと推察した。
「原爆の子」の像や「平和の灯」を見、毎年夏、式典が開かれる原爆死没者慰霊碑に参拝。碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれていた。
資料館に向かう途中、一人の老人が原爆体験を語ってくれた。彼は当時、工業学校一年で、当日、建物撤去に動員され、柱にロープを結び家を倒す作業中、原爆の熱線を浴び、吹き飛ばされて全身にヤケドを負うも一命を取り留めた。周りの背の高い五人の友は即死。彼は数時間後、救助の軍の担架で小学校に運ばれた。
二日後、捜索に来た父親に発見されて江田島の家に戻り、三年程原爆症の治療で入院、なんとか今日まで生き永らえたとのことだった。彼の変形した耳や手足のヤケド痕が無言に真実を語っていた。
彼と別れた後、平和記念資料館に入り、展示されている被爆者の遺品や写真、ジオラマなど、つぶさに見て回った。資料館の出口の終末大時計は原爆危機が後(あと)、数分と示していた。(現在は後二分と示している)
平成二十九年秋、船旅で長崎を訪ねた。
真っ先に平和公園に向かう。ここ長崎は昭和二十年八月九日、広島に次ぎ原子爆弾が投下された。平和公園はその爆心地で、白い巨大な平和祈念像が建っている。
北村西望が制作した像で神の愛と仏の慈悲を象徴し、高く掲げた右手は原爆の脅威を示し、水平に伸ばした左手は平和を意味し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っているとの説明であった。
近くの長崎原爆資料館に立ち寄る。建物は爆心地に臨む高台に位置し、地上二階、地下二階からなる。展示は「一九四五年八月九日」「原爆による被害の実相」「核兵器のない世界を目指して」などのテーマに沿って、資料、写真、解説パネルなどが展示されていた。
館内には原爆によって破壊された建物の一部とか、原爆投下で時が止まったままの「11.02の時計」とか、長崎型原爆と呼ばれる「ファットマン」など(模型も展示されていた。
次に訪れたのはカトリック浦上教会で、浦上天主堂の名で知られ⇔。昭和二十年、原爆投下で破壊されたが、二十四年に再建、信徒数約七千人で、日本最大規模のカトリック教会である。
教会内を見学させていただき、原爆遺構として被爆マリア像や天主堂の鐘楼、馬利亜十五玄義図を目にした。
帰途、「長崎の鐘のモデルとなった永井隆先生のお宅の傍らを通り、かの有名なメロディーを口ずさみ一人感涙にむせんだ。
思えば今年は被爆七十四年、広島、長崎の大勢の犠牲者の冥福を祈るとともに、末永く平和が続くことを祈念している。
(歌人下一丁田)
【沼朝令和1年8月16日(金)号】
「慰霊の旅 大津島・知覧」 浜悠人
小高い丘の上にある記念館には実物大の回天と回天碑が静かな瀬戸内の海を望んでいた。館内の詳しいパンフレットによると「回天とは頭部に1・55トンの爆薬を装着し潜行、浮上、転舵自在の一人乗潜航艇で四基から六基を潜水母艦に搭載し潜航したまま敵艦近くに忍び寄り、特攻隊員が母艦よりハッチを通り回天に移乗し発進、自分の手で操縦、敵艦に当たる」とある。
勿論、生還を期することは絶対に不可能で、例え事故に遭っても自分でハッチを開くことができない装置になっていた。非人間的な無残な攻撃兵器で、戦争末期の、どうにもならない状況下で強行され、硫黄島、沖縄と八回の出撃があり、その戦果が展示されていた。
また、出撃し国のために殉じた回天特攻隊百四十五人の遺影は涙なくしては見られなかった。彼等の平均年齢は二十歳である。
ところで、和田稔は沼中(現沼東)三十六回生で旧制一高、東大と進み、学業半ばにして昭和十八年十二月、学徒出陣で海軍に入隊、海兵団、航海学校を経て十九年十月、特攻隊に志願。同年十一月、回天特攻隊光基地(山口県)に着任した。激しい訓練の後、二十年五月二十八日、和田稔少尉は五基の回天を搭載したイ号363潜水艦に同乗、出撃した。狙いは沖縄とウルシー基地を結ぶ米艦に体当たりし、その補給路を遮断することにあった。一カ月間の索敵の末、敵艦に遭遇せず、止むなく帰投した。
一度死を決意し出撃した彼にとって、帰投とは耐え難いことで、その後、長い沈黙が続いた。そして七月三十一日の再出撃を前にした二十五日、訓練中、事故のため、殉死した。終戦二十日前のことである。
この年の九月中旬、九州に上陸した枕崎台風により、海底にあった人間魚雷が浮上し発見された。艇内には端然と座す和田の姿があった。
あれから幾星霜、瀬戸内の大津島には何事もなかったかのように陽が沈み始めていた。私は重い足取りで連絡船の人となった。
鹿児島の知覧特攻基地には昭和五十五年と平成八年と二回にわたり訪ねている。年を経るごとに整備され、特攻平和観音堂への参道の桜並木も生長し、隊員千二拾八柱の御霊のために、と石灯寵が建立されていた。
この地の特攻平和会館には、太平洋戦争末期、沖縄決戦に知覧飛行場から飛行機の胴体の下に二五〇㌔爆弾を付けて片道だけの燃料で基地を飛び立ち、機もろとも肉弾となり敵艦めがけて突入した、若き特攻隊員の名簿、写真、手紙、遺言などが展示されていた。
昭和二十年五月四日、出撃した相花信夫少尉(十八歳)の遣言は、
母を慕いて母上お元気ですか永い間本当に有り難うございました。我、六歳の時より育てて下されし母、継母とは言え此の種の女にある如き不祥事は一度たりとてなく慈しみ育てて下されし母、有り難い母、尊い母、俺は幸福だった。遂に最後迄「おかあさん」と呼ばざりし俺、幾度か思い切って呼ばんとしたが何と意志薄弱な俺だったろう。母上お許し下さい。さぞ淋しかったでしょう、今こそ大声で呼ばして頂きます。お母さん、お母さん、お母さん
とノート二ページに楷書でペン書きされていた。
また、「特攻の母」鳥浜とめさんは、知覧の富屋食堂のオバサンだった。
出撃前夜、宮川軍曹が「明日わたしは沖縄に行き敵艦をやっつけてくるから帰ってきたときには『宮川帰ってきたか』と喜んでください」と言うので「どんなにして帰ってくるの?」と尋ねたら「ホタルになって帰ってくる一と言うんです。そしてその夜、約束の時間にホタルがやってきたんです。本当に大きなホタルでした。思わず、みんな「このホタルは宮川サブちゃんだ」と言い、みんなで「同期の桜」を歌いました。
最後に、町の顕彰会が建立した特攻像「とこしえに」の銘碑を記す。
「特攻機は遂に帰ってきませんでした。国を思い、父母を思い、永遠の平和を願いながら、勇士は征ったにちがいありません。特攻像『とこしえに』は全國の心ある人々によって建てられました。み霊のとこしえに安らかならんことを祈りつつ、りりしい姿を永久に伝えたい心をこめて、ああ、開聞(※開聞岳・かいもんだけ)の南に消えた勇士よ。(歌人、下一丁田)
【沼朝令和1年8月22日(木)号】
平成八年春、慰霊の旅で沖縄を訪ねた。四月の沖縄はハイビスカス、ブーゲンビリアが咲き乱れ、デイゴが、あの真紅の花びらをつけ始める頃であった。
慰霊の旅 沖縄・戦艦大和 浜悠人
思い起こせば昭和十九年八月、民間人(非戦闘員)を沖縄から本土に疎開させるべく輸送中、米潜水艦により対馬丸は鹿児島トカラ列島沖で撃沈され、千四百七拾六人が犠牲となり、そのうち七百七拾九人が学童であった。その後、非戦闘員の疎開もできず沖縄南部に多くの住民が残ることになった。
日本守備隊は牛島満司令官率いる第32軍を主力に3個師団を加え、在郷軍人、県民義勇冥学徒隊、ひめゆり女学生と総力を挙げ、米軍の本土上陸を一日でも長く阻むため持久戦を図った。
戦闘は昭和一一十年四月一日、夥(おびただ)しい艦砲射撃の後、米軍は千五百五十七隻の艦船に十八万の軍隊で嘉手納湾に上陸。島を北と南に分断し、三カ月の烈しい戦いの後、六月二十二日(あるいは二十三日)、牛島司令官の自決をもって沖縄戦も集結した。
その間、神風特攻隊の攻撃が何度か行われ、米機動隊に多大の損害を与え、また戦艦大和の特攻出撃、壮絶な最期と海空にわたり死闘が繰り広げられた。
日本軍九万四千、沖縄住民九万余、米軍一万三千、計二十万人が戦死、または自決した。米軍も指揮官バックナー中将が戦死、アーニパイル記者も、ここで亡くなっている。
私は激戦地をつぶさに訪ねた後、南部にある摩文仁(まぶに)の丘に立った。ここが、あの悲惨な沖縄戦終焉の地だとは思われなかった。高さ八十㍍の隆起珊瑚礁の絶壁からは多くの住民が飛び下り自決したと聞く。
この丘も今は沖縄戦跡国定公園となり、園内には沖縄戦没者墓苑、黎明之塔、慰霊平和祈念施設や式典会場、隣接し資料館や祈念堂がある。
私は平和の礎(いしじ)と呼ばれる、たくさんの記念碑の建つ地区を訪ねた。沖縄戦で亡くなった全ての人々の氏名を県別に屏風形の花嵩岩に刻んだもので、静岡県の塔碑には千六百七柱の氏名が刻まれていた。
私は一人一人の氏名を胸に刻み、黙祷を捧げた。丘から見下ろす南国の海は碧を湛え、眩いばかりに輝いていた。
平成十九年春、広島県呉市の大和ミュージアムと近くの江田島旧海軍兵学校を訪ねた。戦艦大和は昭和十六年十二月、呉海軍工廠で竣工後、連合艦隊旗艦として海軍作戦の指揮全般にあたった。既に主役の座は戦艦から航空機へと移り、大和は支援活動が多くなり、戦争末期の昭和二十年四月七日、沖縄海上特攻作戦に出撃、九州南西沖の海上で多数の米軍機の攻撃を受け、応戦の末、大量の爆弾や魚雷が命中となり沈没した。
大和は沖縄に到達することもなく、海上特攻艦として散っていつた。戦死者二千七百四十人、生存者二百六十九人であった。近くの鹿児島県徳之島には戦艦大和慰霊塔が建立され、また、呉市の旧海軍墓地には戦艦大和戦死者之碑がある。
結びにあたり、沖縄は今次大戦、国内で唯一、住民を巻き込んだ戦場と化した土地である。私達、日本人は沖縄に対して何として購(あがな)えば良いであろうか。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和1年8月29日(木)号】
千鳥ヶ淵戦没者墓苑皇居の外濠をめぐる一画にあり、日中戦争および太平洋戦争の戦没者のうち遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置してある。公園としての性格を有する墓地公園で、環境省が所管する国民公園等の一つである。
園内には安倍晋三総理も訪れる千鳥ヶ淵戦没者墓苑六角堂がある。無名戦没者の墓で、平成三十年五月現在、三十万九千百六拾六柱が六角堂内に安置されている。
靖国神社 上京の折、幾度か玉砂利を踏み参詣した。その都度、境内の右手にある遊就館を見学した。
遊就館は幕末維新の動乱から太平洋戦争に至るまでの戦没者や軍事関係の資料を収蔵・展示してあり、我が国、最初で最古の軍事博物館である。
玄関ホールや二階展示室、一階大展示室とめぐり、最後のコーナーには祭神となった戦没者の写真や肖像画の一部が展示されていた。写真の中に旧制沼中出身で人間魚雷回天の和田稔少尉があったのを記憶する。
静岡県護国神社静岡市葵区柚木にあり、たびたび訪ねたことがある。
この神社は明治維新から太平洋戦争に至る県内出身の戦没者・殉死者七万六千余柱を祀っている。社務所の二階は遺品館となっていて戦没者の遺品約四千点が展示されている。偶然、出口近くのガラスケースに長田隊長の遺影と長田隊激戦の地と書かれた碑の写真や佐藤栄作総理から贈られた表彰状を見つけた。
長田隊長は日米開戦の昭和十六年十二月八日、香港政略に活躍。その戦績が陛下に奏上されたとか。その後、南方に転戦して負傷。内地に戻り、昭和十八年五月、配属将校として旧制沼中の教官となる。
私は十九年四月に沼中入学。長田教官は再度、四月に応召して静岡連隊に復帰。五月、横浜港から船団に乗りサイパン島に向かうも米潜水艦の魚雷を受け全て沈没という悲惨な結果となった。その時の静岡連隊の海没者は二千二百四十人に達した。
平和祈念之碑 旧制沼中・沼津東高の卒業生からなる香陵同窓会が平成十八年五月、先の戦争で亡くなった同窓生二百八十三人の慰霊式を岡宮の東高香陵記念館で行った。
翌年、戦没者のかつての学び舎の跡地である市民文化センターの玄関脇に戦没同窓生の慰霊のため「平和祈念之碑」が香陵同窓会によって建立された。そして、翌二十年四月三日から毎年、碑前祭が行われてきた。
旧制中学・新制高校の同窓会により建立された沼津の「平和祈念之碑」は全国でも、その例がなく、唯一のものだと誇りに思っている。
式典当日は、戦没された卒業生二百八十三柱の方々の卒業回期と氏名が付されたプリントが配られ、参加者一人一人が献花し、深い哀悼の意を表している。
戦没者を追悼し平和を祈念する日一九八二(昭和五十七)年から毎年八月十五日の終戦の日を表記の日と定め全国的に実施している。
沼津市でも当日、市民文化センター小ホールで式典に先立つ十時四十五分から遺族会主催による戦没者戦災死者慰霊法要が行われた。そして十一時五十分から全国に合わせ式典が開かれ、正午直前、会場のカーテンが下ろされ、天皇、皇后両陛下の慰霊のお言葉のシーンが放映された。私も沼津会場で献花し、戦没者の方々を追悼し平和のとこしえに続かんことを祈念した。
(歌人、下一丁田)
〈沼朝令和1年9月3日(火)寄稿文〉
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