2019年6月2日日曜日

沼津市明治史料館通信 二〇一九年四月 通巻137号:大日本名医一覧 :渡辺東洋と平尾賛平



沼津市明治史料館通信 二〇一九年四月 通巻137
大日本名医一覧当館蔵
 明治十二年(一八七九)に大阪で発行されたもので、全国的に知名度が高い人物を番付表形式で並べている一方、四段目から六段目には大阪の医師たちの名が集中する。七段目右に杉田玄端(沼津病院頭取)、一段目右に三浦換(沼津病院二等医師)ら、沼津移住旧幕臣の名が見出せる。二段目左には「駿河沼津 森岡元碩」(大岡村木瀬川の医師)、三段目左には「大手筋 柳下知之」(沼津藩士出身の陸軍軍医で当時大阪鎮台勤務)がある。他に戸塚文海・名倉知文・小川清斎・柏原学而・坪井信良ら、静岡病院の医師だった静岡藩ゆかりの医師たちも載っている。


シリーズ沼津兵学校とその人材98
渡辺東洋と平尾賛平
 静岡藩立の沼津病院は、当初は沼津兵学校に併置された陸軍医局として発足したが、後に静岡病院の傘下に入り別組織となった。頭取(院長)杉田玄端の下、そこに配属された医師には幕府陸軍の軍医だった旧幕臣と、地元で採用された平民出身者とが混在していた。駿東郡原宿(現沼津市)の町医者だった渡辺東洋は現地採用者の一人である。
明治二年(一八六九)刊行の『沼津御役人附』、翌年刊行の『静岡御役人附』の沼津病院の箇所に東洋の名前は掲載されていない。兵学校資業生の一人が残した名簿には「渡辺東陽」とある(「史料紹介沼津兵学校人名簿」『沼津市博物館紀要』21)。三等医師並の肩書だったことは大正期に活字化された「沼津兵学校沿革()(『同方会誌』43所収)に掲載されているが、たぶん採用は明治三年か四年以降のことだったのであろう。
 東洋は、俳入でもあった原宿の町医者渡辺格斎(希鳳)の息子だったようで、父の稼業を継いだらしい。格斎の学統は不明であるが、文久二年に入門した今沢村の医師酒井教順は彼に「内科外科医業」を学んでいる(『沼津市史史料編近代1)。明治五年(一八七二)二月の原宿西組「戸籍人別取調帳」(いわゆる壬申戸籍、当館蔵・渡辺本陣文書)には、「沼津病院寄留 久平二妹やゑ倅 長男東詳 年二十二歳」と記されているので、東洋は廃藩後も会社組織によって存続した沼津病院に住み込みで勤務したことがわかる。戸籍からは、彼が原宿の脇本陣若狭屋・組頭渡辺久平の甥だったことも判明する。
杉田玄端は六年(一八七三)一二月に沼津を去り上京するが、東洋はそれを追ったようで、七年(一八七四)三月二五日、二三歳の時、玄端を身元保証人として慶応義塾医学所に入学した(『慶応義塾入社帳』第五巻)。同医学所は、六年一〇月に福沢諭吉が開設したもので、教師兼監事として玄端の次男杉田武らが勤務したほか、併設された診療所の主任を玄端がつとめた(『福沢諭吉伝』第二巻)。新聞広告によると八年(一八七五)、東洋は玄端・石井信義らとともに東京神田に玄端が開いた尊生舎診療所の医師をつとめていたことがわかっている(『郵便報知新聞』明治八年七月一三日)。玄端は慶応義塾医学所生徒の実地指導も行ったという(北里文太郎「慶応義塾医学所()」『日本医史学雑誌』第一三一〇号、一九四二年)。東洋は玄端の下で学生として医学の勉学をするとともに、医師の仕事もしたのである。
 東京時代の東洋は、静岡出身のある実業家に商売上のヒントを与え、彼を輝かしい成功者へと導くことになった。その実業家とは、駿府の問屋役・伝馬取締役などをつとめた有力商人平尾清一郎の一族だった平尾賛平(一八四六~九七)である。賛平は上京する前の明治初年には、駿河府中藩の府中奉行中台信太郎から沼津の「生育方用達商人の手伝方」や「帳簿方」に任命され、清水に在勤して大阪・兵庫・堺・岡山などの各地で米穀の買い取りを担当した(『東洋実業家詳伝』第弐編)、あるいは「静岡常平倉長渋沢栄一(男爵)の庇護の下に藩米の現物売買を為し又た沼津兵学校の賄方」(『東海三州の人物』)をつとめたなどとされ、さらに別の説明のし方では、沼津に置かれた「徳川家常平倉」の「勤番」や「三井組の静岡藩為替御用」の出張所勤務を命じられた(『平尾賛平商店五十年史』)という。
つまり、静岡商法会所および沼津兵学校の管理部門である陸軍生育方が開設した沼津商社会所の御用達だったのである。東洋と賛平とは、すでに沼津で知り合っていた可能性がある。やがて上京し、三井組に勤務した後に独立した賛平は、一一年(一八七八)頃、「知人渡辺東洋」から「香水の製法を授」けられ、「小町水」という香水の製造・販売に乗り出し、コレラ除けの匂い袋なども手広く扱い、医薬品業界で大成功をおさめることになった。平尾は岳陽堂の屋号を名乗り、後年は息子が二代目賛平を襲名した。
 東京で商売を拡大していった平尾賛平に対し、東洋は静岡県にもどったようである。一五年(一八八二)時点では駿東郡佐野村(現裾野市)の駿東病院第二出張所詰で、松本順の演説を載せたコレラ予防の印刷物を近隣に配布している(『沼津新聞』明治一五年八月一〇日)。一七年(一八八四)には衛生行政の地域支援組織である岳東私立衛生会の幹事となっている。一八年(一八八五)三月には田方郡間宮村(現函南町)で眼科医亀井膽斎を招聘して診察所・病室を新築し、眼科医院を開業した(『函右日報』明治一八年三月一八日、『静岡大務新聞』同年同月一九日)。また、二二年(一八八九)時点では、君沢郡大場村(現三島市)で開業していたことがわかっている(内務省衛生局編『日本医籍』)
 東洋は郷里である原の菩提寺・徳源寺に眠る。戒名は法徳院全心恵照居士、没年月日は明治二六年(一八九三)七月二六日と彫られている。四十代前半で亡くなったのである。東洋には長男某がいたが、ジフテリアのため駿東病院長室賀録郎の手術を受けたものの、明治一六年四月に先立たれていた(『沼津新聞』明治一六年四月二二日)。東洋の墓石には「東京大河鎌吉・平尾賛平建之」とも彫られており、実業家平尾が成功のきっかけをつくってくれた恩人である東洋との交際を絶やさなかったことがうかがえる。この墓石の所在に関しては望月宏充氏のご教示を得た。記して感謝する次第である。
(樋口雄彦)

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