2018年4月1日日曜日

「宮町・下河原町(みやちよう しもがわらちよう)と河岸(かし)の景観」 加藤雅功




 地図から見た沼津③
「宮町・下河原町(みやちよう しもがわらちよう)と河岸(かし)の景観」 加藤雅功
 
今回は文化3(1806)に作成された「本町絵図(その1)」を用いて、狩野(かの)川河畔の「河岸」(かし)とその後の変遷を見てみたい。絵図の凡例からは夫役(ふえき)の1つ、伝馬役(てんまやく)の伝馬屋舗(てんまやしき)(以下屋敷)は宮町・下河原町ともになく歩行(あるき)屋敷と船手(ふなて)屋敷が多く、野(の)屋敷は10数軒を数える。宮町は船手屋敷が28軒、歩行屋敷が7軒で、家数48軒を数える下河原町では船手・歩行ともほぼ半々で、図幅内では野屋敷は1軒のみである。道に沿って短冊型の土地割りをなす中で、人足役(にんそくやく)を勤める歩行役(あるきやく)の民家以上に集落を特色づけるのは船手役(ふなてやく)で、船舶の管理や輸送の任務に当たった点である。
狩野川右岸では「河岸」の景観とともに、重要なのは「川除」(かわよけ)である。洪水制御を目的に築かれた「石突き出し」(石出しとも)は、石組みの形状から「甲羅伏(こうらぶ)せ」とも呼ばれた。絵図ではほぼ100m前後の等間隔で下流側へ斜めに突き出す「出し」は、河岸道(かしみち)の先に構築され、普段は船舶の係留にも役立てられていた。長さ5間から7間程度、幅も5問前後で、規模が大きなものは上部が平らな例もあった。これらの出しのほか、河岸や川に下りる階段、船繋(ふなつな)ぎの松、石垣・擁壁(ようへき)等の濃(こま)やかな描写は、川に依存する河港(かこう)の機能と裏腹に、災害常襲地ならではの特異さを反映し、生活に根差した文化的景観を示している。

宮町・下河原町の町名の由来 宮町の命名は、市内でも古くに開かれた西光寺(さいこうじ)近くに、富士浅間宮(ふじぜんげんぐう)(浅間神社)があったことによる。建仁3(1203)に現在地へ遷座(せんざ)したというが、元の位置は不祥である。西光寺の鎮守として祭られており、境内地の一画を占めていたとすれば、元禄期に天神が位置し、後に不動院(不動堂)が建立された川寄りが想定される。
一方、下河原町の命名と関わる「祇園社」(ぎおんしゃ)は旧天王社(てんのうしゃ)のことで、京都の祇園社(八坂神社)周辺は下河原の地であり、京都にならって付けられた地名という。沼津本町の祇園社は明治の一時期に「下河原神社」と呼ばれていた。疫神(えきがみ)の午頭(ごず)天王を祭った天王社は、祇園社とも呼ばれかつ下河原(下川原)の地名の由来とも関係している。単に狩野川の下方の河原地帯から名付けられた地名と見るよりも、原野ではない点や開発の古さとから神社に因(ちな)む説の方が説得力を持つ。
明治初期の妙海寺(みうかいじ)へは不動院に接した妙海寺道(妙海寺門前)からで、絵図でも同様だが、天王道から入って突き当たりに「古表門」の表記がある。古くは妙覚寺(みようかくじ)にも接した境内であり、天王社に向う「天王道」の側からが合理的である。第六天社(現川邊神社)とに挟まれた一画は曽祖父が居住していた頃の「入り町」(いりちょう)で、絵図では家が5軒ほどある。旧道から文字どおりの入り込んだ部分で異形の区画を占めている。天王小路(てんのうこうじ)への道でもあり、クランク状の道の先には天王社(紙園社)のほか、耕作地に浜道(はまみち)が3本ある。
なお、第六天社の筋向(すじむ)かいは、狩野川の川岸が直接迫る特異な地点で、絵図では土塁が3か所描かれている。妙覚寺門前でもあり、鉤(かぎ)の手状の道をなしており、土塁や松、山門前の石碑ないし道標(どうひよう)、そして直接岸壁となる河岸(かし)から、沼津宿の「南見付」(みなみみつけ)の遺構と見ることが出来る。第六天社前の「石突き出し」も長さ5間、横4問で張り出し、河岸への階段も加えて、文化的景観の全ての要素が凝縮している。また戦前の人工堤防の築造以前は、その直ぐ際まで波止場として、定期船の接岸する港の機能が維持されていた。

下河原の生業と耕作地 下河原の千本浜での地先漁業
は古くに回遊魚を対象とした地曳網(じぴきあみ)で、地元の天王社に因む網組の「天王網」(てんのうあみ)が、東西に別れたが現在でも継続されている。沼津本町では明治中期に漁業を営む漁家が80戸程度にしか過ぎず、それさえも半農半漁からすでに商業へと向かってしまった。下河原から宮町にかけての住民の生業(なりわい)は、元々魚仲買の「いさば(五十集)衆」が多く、魚町(うおちよう)や仲町(なかちぅう)などから移行して活気を呈していく。大正から昭和初期にかけて、宮町に魚市場が整備されると、港関連の仕事への依存度も高まり、本町の町場での賃稼ぎも増加した。私の父が沼津魚市場に就職したのもその頃である。
 土地利用面を見ると、下河原や本町分の畑地では、養蚕が明治期に盛んとなって、明治20年代から戦前までは狩野川寄りに桑畑が多かった。祖父が農業で生計を立て始めていた大正末期頃には、下河原に郡是(ぐんぜ)製糸場も進出していた。昭和10年頃からは耕地整理事業も進められ、戦後の昭和30年代から都市化が進展して普通畑さえなくなり、水田も観音川沿いから千本中町付近まで分散してあったが同様に消滅している。

港湾の整備 大正末期までに県道が延伸して、下河原からは伊豆通いの定期船(東京湾汽船、後の東海汽船)が発着し、営業所のほか、発着場付近には旅館や商店が立ち並んでいた。松崎や下田を巡る船旅の河港の賑わいを、今や想像することさえ困難となった。我が家では祖父の妹が下河原小町といわれ、下田の船長に見初(みそ)められて結婚したこと、親類が船宿のミナトヤ(港屋)を営んでいたことなどを思い出す。下河原の町名が一時期「港町」(みなとちょう)といわれたのも、丁度その頃である。永代橋(えいたいばし)以南の狩野川両岸の沖積地には富土川起源の砂礫層が厚く堆積しており、干潮時に吃水(きっすい)を保てない状況は長く続き、明治以来ずっと「川ざらい」の淡蝶(しゅんせつ)が継続した。昭和8年「港湾地区」に掘り込み式の港湾(沼津港)が完成しても、航路の水深を安定的に確保するために御成橋(おなりぱし)際まで川底の掘削需要があった。砂利を掘削して台船に乗せる「川掘り蒸気」の浚渫船による作業は、狩野川台風の直前まで続いた。
60年以上前に、屋形(やかた)船の竜宮丸(りゅうぐうまる)(グラスボート)で夏に内浦方面に繰り出し、納涼と海女(あま)の素潜りショーを見学した体験は、少年の日の楽しい思い出であった。当時、観光客を乗せて御成橋たもとの乗船場まで川を上り下りする遊覧船のほか、内浦とを結ぶ貨物船が接岸した「河岸」がまだ残っていたのである。現在では河岸も無くなり、親水性は大きく後退してしまった。
【沼津市歴史民俗資料館だより2017.12,25発行Vo1.42No.3(通巻216)編集・発行 沼津市歴史民俗資料館】

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