平成29年1月14日(土)
歴民講座
「徳川家康の沼津支配」
ー興国寺城将松平清宗を通じてー
当日配布資料
徳川家康の沼津支配を見る
興国寺守った松平清宗を通じて
市歴史民俗資料館(歴民)は先月、歴民講座を市立図書館四階の視聴覚ホールで開き、歴史学省の芝裕之氏が「徳川家康の沼津支配-興国寺城将松平清宗を通じてー」と題して話した。百四十七人が聴講した。
三枚橋城と役割分担
河東二郡の警備を担当か
芝氏は徳川家康の家臣団に関する研究を行っている。昨年度の歴民講座でも講師を務め、戦国時代末期に三枚橋城代を務めた松井忠次について解説している。
今回の講演は前回と対になるもので、松井忠次と同時期に興国寺城に駐在した松平清宗の生涯を明らかにするとともに、現在の沼津市域に存在する二つの城に配置された二人の武将の役割の違いについて話した。
沼津の城東海道経由で関東地方への入り口となる沼津の地は、政治的軍事的に重要な拠点と見なされ、戦国大名による争奪の対象となった。当時、沼津を含む駿東郡は富士郡と合わせて「河東(かとう)二郡」と呼ばれて一つの地域と見なされていた。
戦国時代後期に河東二郡を制圧した武田氏は、興国寺城を河東の行政中心地として定め、武田信玄の側近も務めた曽根昌世(そね・まさただ)を担当者に任命した。
天正十年(一五八二)、武田氏が滅亡すると、河東二郡は徳川氏の支配下に入った。徳川家康は三枚橋城を行政の中心地とし、国境防備のベテランであった松井忠次を関東の北条氏への備えとして同城に配置した。
松平清宗 この時、興国寺城に派遣されたのが松平清宗(一五三八~一六〇五)だった。
清宗は竹谷(たけのや)松平家の出身で、同家は家康の実家である松平一族の分家筋に当たる。
清宗は家康の部下として戦い続けて手柄を立てている。息子は家康から名前の一文字をもらい、家清」と名乗ることを許されたうえ、家康の異父妹を要とした。
武田氏滅亡直後、河東二郡は、武田時代から興国寺城にいる曽根昌世と、新たに勢力を拡大した家康によって二分された。このため、曽根の興国寺城と、家康によって送り込まれた松井忠次の三枚橋城という二つの中心拠点が河東二郡に並立することになったが、曽根は間もなく亡命してしまったため、興国寺城が空くことになってしまった。この空き城に清宗が派遣されることになった。
清宗の仕事 当時の清宗が発行した命令書など三通の書状が現在も残されている。それらによると、清宗は現在の原地区周辺に漂着した不審船の捜査を担当したことが分かっている。
このことから、湾宗は興国寺城に駐留する武士達を指揮して河東二郡の警備を担当していたと考えられている。
一方で、同時期に三枚橋城にいた松井忠次は、税金徴収などの行政事務を担当していたことを示す史料が残っているため、清宗は河東二郡を治める忠次を軍事面で補佐する役割を果たしていたと見られている。
清宗の子孫 豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと、家康は東海地方から関東地方に移された。この時、清宗も武蔵国八幡山(埼玉県本庄市)に移り、一万石の領地を認められた。清宗は生前に当主を引退して息子の家清が後継となり、家清は関ヶ原の合戦後に三河国吉田(愛知県豊橋市)で三万石の大名となった。
しかし、家清は五年前に死去した父に続いて慶長十五年(一六一〇)に四十五歳で急死。息子の忠清が後を継いだが、忠清も二年後に二十八歳で急死してしまった。これにより大名としての竹谷松平家は断絶してしまったが、忠清の弟の清昌が後に幕府旗本となり、旗本としての竹谷松平家は幕末まで続いたという。
【沼朝平成29年2月5日(日)号】
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