画像資料
2016年3月19日異国船と村人岩田みゆき教授画像資料 |
資料pdf
沼朝平成28年4月3日(日)関連記事
幕末期異国船への対応
戸田にも動き、勝呂家で記録
沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)による第12回「沼津ふるさとづくり塾」が先月、市立図書館で開かれた。漁村史などが専門で沼津市史編さんにも携わっていた青山学院大学教授の岩田みゆき氏が「幕末期の沼津-異国船と村人」と題し、主に現在の市内南部地区の人々が異国船とどのように向き合ったのかについて話した。
当時も国際情勢への関心高く
ふるさと塾 青学大教授が解説
異国船への対応一八五三年のペリー提督によるアメリカ艦隊の来航以前にも、欧米の艦船は日本近海に出没しており、江戸幕府は対応を迫られていた。
一八四六年、アメリカ使節のビッドルが軍艦二隻を率いて浦賀に来航して日本との通商条約締結を求めたが、幕府の拒絶を受けた。一八四九年にはイギリス船マリナー号が相模湾の近海で測量を実施した。
こうした「異国船」が出現するたびに、幕府は警戒態勢を整えた。各藩に防衛部隊の出動を命じ、各藩は藩士を派遣するだけでなく、藩内の領民も動員した。
ビッドルの来航時、沼津藩は藩士を下田に派遣したほか、その一部が藩領となっていた戸田村では「郷筒」に出動準備を命じた。
郷筒とは、害獣駆除のために猟銃の所持を認められた人達のことで、沿岸警備の応援に投入される予定だった。しかし、ビッドルが帰国したため、実際に出動することはなかった。
マリナー号の際には、沼津藩は警備を担当していた東伊豆沿岸の台場(砲台)に藩士を派遣するとともに、戸田村では様々な作業に従事するための人足の動員が行われた。
また、いずれの際にも物資輸送のために船の動員も行われた。この動員は「取船(とりふね)」と呼ばれた。
飛び交う情報戸田村では名主の勝呂家によって異国船に関する様々な情報が記録された。村に対する命令や、それへの対応を備忘的に記しただけでなく、様々な風聞も記録した。ペリー来航時には、アメリカ政府の国書の和訳文を入手して転載している。
こうした村々の情報源となったのは、異国船対応のために動員された人達だった。
ビッドル来航の際には、取船の乗組員として現場に動員された船乗りが、緊迫した情勢を伝えている。それによると、異国船は「アミリカ」から来た大小二隻の軍艦で、大型の艦は大砲九十門を搭載していた。これに一対し日本側は、不測の事態に備えてアメリカ船を焼き討ちにする準備を進めた。火薬を積んだ船をアメリカ船に衝突させる計画だったという。
また、遭難して異国船に救助されて生還した船乗りの話も記録された。
文右衛門という船頭は一八五〇年一月六日に下出を出港した後、遠州灘で遭難。偶然発見した無人船に乗り移って漂流を続け、三月十日になって異国船に救助された。
この間に文右衛門は船乗り仲間に対して、「外国の捕鯨船に出会うこともあるから心配するな」と励ましていた。文右衛門は、それまでにも異国船に救助された経験があったという。
そうした過去の経験の中で、文右衛門は外国語をある程度理解していて、救助してくれた相手に「イキリス」の船かと尋ねたところ、「フラシヤ(フランス)」という答えが返ってきたという。その後、身振り手振りを交えて帰国協力の依頼をし、現在の岩手県の浜辺に送り届けられた。
文右衛門は異国人の生活を観察していて、フラシア人は米を食わずに「パン」という小麦の焼き餅を食べる、などと述べている。
終わりに岩田氏は講演のまとめとして、異国船の来訪に対して、村々では労働力提供などを命じられて負担も大きかったが、動員されて異国船の現場へと近づいた人達から貴重な情報を得ていたこと、日本人の船乗りは異国船や異国人に対して同じ船乗りとしてある種の親近感があったことなどの特徴を指摘。
そして、地域社会においても国際情勢への関心に高く、地域社会の歴史研究では、こうした新たな視点も重要になってくると話した。
0 件のコメント:
コメントを投稿