2016年3月18日金曜日

陸軍大将 井口省吾の足跡Ⅲ資料・画像:講師 井口賢明氏


平成28年2月20日
第11回「沼津ふるさとづくり塾」
陸軍大将 井口省吾の足跡Ⅲの資料(pdf)と画像






資料です












画像です
2016年2月20日井口省吾の足跡3画像
 沼津史談会ふるさとづくり塾
 井口賢明氏が講師務め
 酒津郷土史研究談話会(沼津史談会)による第11回沼津ふるさとづくり塾が先月開かれ、同会会員の井口賢明氏と長谷川徹氏が講師を務めた。井口氏は「陸軍大将井口省吾の足跡その3」と題し、大岡地区出身の陸軍大将の生涯について話した。弁護士で同地区在住の井口氏は、井口省吾の同族に当たる。井口日記を活字化して出版する準備を進めていて、年内に刊行予定だという。今回の講演は全三回の最終回で、明治三十五年(一九〇二)の参謀本部総務部長就任の経緯の説明から始まった。
 参謀本部総務部長就任から
 日露戦争経て戦後のキャリアへ
 参謀本部へ 陸軍大学校教頭を務めていた井口は、陸軍省に転任して課長として動務。上司である陸軍大臣を児玉源太郎が務めていた頃は円満な勤務状況だったが、大臣が寺内正毅に変わると、新大臣と激しく意見対立するようになった。
 この遠因には、当時の陸軍内の派閥抗争があるという。当時、明治維新で活躍した長州藩出身者が一大派閥を形成していて、井口は、それを批判的に見ていた。寺内だけでなく児玉も長州出身だったが、児玉は派閥にこだわらずに接することができたという。
 省内にあって不遇な井口に助け船を出したのは田村怡与造(たむらいよぞう)だった。参謀本部の総務部長だった田村は、同本部次長に昇任するのに伴い、井口を後任の総務部長に推した。
 井口は職務上に不可解な点があれば遠慮をしない性格だったので、日頃から井口は田村に対しても異議を唱えて両者は口論が絶えなかった。大声で怒鳴り合うこともあったため、田村が井口を後任に据えたことに対して、陸軍内では驚きの声が上がったという。
 山梨出身のため「今信玄」とも呼ばれた田村は井口に好意的で、その才能も評価していたという。田村は来るべき対露戦に備えて、参謀本部に優秀な人材を集めようとしていた。
 日露戦争このころ、中国大陸や朝鮮半島を巡る情勢から、日露の対立は激化。開戦は時間の問題で、戦争を始めるなら早い時期が有利、という主張が軍部や政府の内部に存在していた。
 これはシベリア鉄道の整備状況を見据えた議論で、ロシアが欧州の兵力を極東に派遣するのに必要な鉄道の整備が終了する前に開戦すれば、日本にとって有利になるという考え方だった。早期開戦論者の集まりは、会合場所の料亭の名から「湖月会」と呼ばれた。日記の記述によると、井口も湖月会と関わりを持っていたという。
 日露戦争の準備を進めていた田村だったが、明治三十六年(一九〇三)に急死。参謀本部トップの総長を務める大山巌は縁戚の伊地知幸介を後任の次長に望んだが、陸軍内の反対も強く、内務大臣を務めていた児玉源太郎が大臣を辞職して次長とまった。
 その翌年に日露戦争が始まると、児玉は満州軍(戦地派遣軍)の総参謀長となり、井口は参謀となった。井口はウマの合う児玉と文字通り寝食を共にし、作戦立案について議論を重ねた。
 戦局が日本軍優勢となり、重大決戦である奉天の会戦に日本軍が勝利した時、井口は腎臓病に苦しんでいた。奉天城を占領した日本軍が入城式を挙行した際、軍の高官は揃って馬に乗って城門をくぐったが、病身の井口は城の近くまでカゴで担がれて移動し、それからようやく馬に乗り換えて式典に参加できたという。
 戦後のキャリア戦後の井口は病気を理由に辞職を願うが、慰留されて明治三十九年(一九〇六)に陸軍大学校校長となり、大正元年(一九一二)には第十五師団の師団長となった。
 校長時代には、軍上層部から落第者への温情を求められたものの、これを断固拒絶するという逸話を残している。
 愛知県豊橋に本拠を有し、静岡県も管轄区域に持つ第十五師団の師団長就任は、井口にとっては喜ばしいものだった。
 参謀本部総務部長や陸軍大学校校長も軍の高官だったが、直属の部下は少ない。一方で師団長は一万人を超える将兵を部
下に持つ、いわば「一国一城の主」であり、公務員としてのランクも県知事より格上と見なされていた。
 この第十五師団は、沼津とも多少の縁があった。当時、師団誘致は地域経済に大きなメリットをもたらすと考えられていて、各地が誘致に熱を入れていた。同師団開設の話が持ち上がると、当時の沼津町も誘致に乗り出七、陸軍大学校校長だった井口を町長が訪問し、誘致への口添えを依頼したという。
 皇室観と人柄 師団長就任までの井口の経歴を解説した井口氏は、特に師団長時代に顕著だった井口の皇室観についても紹介した。
 それによると、井口は明治天皇への敬愛の情が強かった。そのため、自分が信仰する宗派は「明治天皇宗」だと話したり、式典の祝辞で明治天皇をナポレオンや豊臣秀吉を超える才能の持ち主だと述べて物議を醸したりなどの特異なエピソードを残している。
 また、大正天皇と面談する機会を得た際には、天皇に対して酒とタバコの害を伝え、節制するよう進言したという。
 井口省吾の生涯を語り終えた井口氏は、講演の最後に井口の人柄を評し、「正義感が強い硬骨漢で、裏表がない人物だった」と話した。

 不二家工場や上水道の整備
 長谷川徹さんは沼津の戦後史を
 一方、沼津史談会会員の長谷川氏は、前回に続いて「沼津の商店街ー戦後昭和史」と題して話した。
 その中で、戦後間もなくに第五地区に建設された不二家の水飴工場が、後に同社の主力商品である「ミルキー」の生産工場となり、製品が全国に向けて出荷されていたことを取り上げ、「これこそ沼津初の全国ブランドと呼べるものではないか」と話した。
 また、沼津市の上水道整備についても話し、戦時中の海軍用水源の水利権を市がいち早く取得したことを紹介し、「当時は予算の関係で市議会には反対もあった。しかし、この時に水利権を得たからこそ、現在も柿田川の湧水を正当に使用することができている。当時の人々の先見の明は素晴らしい」と指摘した。
【沼朝平成28318()号】

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