2016年3月8日火曜日

第1回狗奴国サミットin沼津:高尾山古墳に葬られたのは、物部氏第6世代の伊香色雄命(イカガシコヲノミコト)と推定されます




高尾山古墳に葬られたのは誰か
一日本歴史に占める高尾山古墳の位置一
原秀三郎

はじめに
平成2年度から平成21年度までの19年間行なわれた沼津市史編纂に私は原始古代部会長として参画し、また最後の5年間は、佐々木潤之介委員長死去の後をうけ、総括の任に当たってきました。高尾山古墳の本調査は平成20~21年度であったため、その成果を市史の叙述に生かナことはできませんでした。
本サミットの基調講演を要請されたこの機会に、訂正することも含めて、沼津市史の叙述を補足し、高尾山古墳の被葬者と、その歴史的意義について考えるところを述べてみたいと思います。

1 高尾山古墳の被葬者は誰か
1 .高尾山古墳に葬られたのは、物部氏第6世代の伊香色雄命(イカガシコヲノミコト)と推定されます。命は開化・崇神両朝(AD230年頃~258)の大臣(オオマエツギミ)として、天ッ社・国ッ社の制を定め、物部氏族の祭神布都(フツノ)大神の社を大和の石上邑に遷し建て、併せてニギハヤヒ天授の瑞宝も蔵(おさ)め斎(まつ)って、大和王権と氏族の神を崇め祠(マツ)る石上神社を創設した、と伝えられています。(先代旧事本紀天孫本紀)
2. 伊香色雄の政治的活躍の場は、大和王権の膝下にあったのですが、その軍事的・経済的基盤である領地(封地)は、西は大井川から、東は足柄・箱根両山にかけての駿河・伊豆(七島を含む)の地域にあって、東方海上交通を押え、その治所(チショ)(本拠地)は駿河湾の喉元、金岡の地にあり、死後はその丘陵上に葬られたと推定しています。
3. 高尾山は後の駿河郡と伊豆の田方郡とを押える地点にあり、眼下は観音川の原流、子持川の水源地帯で、沢田から明治史料館の辺りまでが在地の生活基盤としての居館集落(沢田遺跡、或いは柵か。)であり、近隣に通ずる陸路は根方街道、また大和に通ずる海路は子持川・観音川を使って外海に通じていました。埋葬に使われた小船(棺)は、おそらくこの外海に通ずる川筋で、彼の封地治所滞在中は、日常的に使用していた遺愛品ではなかったでしょうか。
Ⅱ高尾山古墳と中信濃弘法山古墳
1 中信安曇野・松本平を一望に収める松本市丸山の弘法山古墳は、高尾山古墳と規模や築造年代の共通点が多い古墳として注目されています。今回の調査で同形式の鏡を共有していたことが明らかとなったのは重要です。この弘法山古墳も、恐らく物部氏族の有力人物の墳墓であり、個人名を特定するには至りませんが、物部氏第三世代の出雲醜大臣命(イズモシコオオミノミコト)(懿徳(イトク)天皇の国政大夫)に始まる、三河国造の系譜に連なる人物ではないか、と推定しています。
2. 弘法山古墳からは布に包まれた鉄斧が出土しています。これは大和王権が辺地や戦地に派遣した将軍に与えた斧鉞(フエツ)ではないかといわれています(一志茂樹)。この点から言えば、弘法山古墳は北信や関東などに残る「将軍塚」のひとつと見てもよいでしょう。
又、甲斐の銚子塚(前方後円墳、全長169m)からも鉄製の手斧(チョウナ)が出土しています。私は伊豆を含む東駿河一甲斐一中信松本平・安曇野のラインが、大和王権の東方統治の第一次前線ラインで、その後、立ちはだかる足柄山や甲武信岳・浅間山に連なる山々を越えて東方へ、更に北方へと延びていったと考えています。
3. 田中卓氏は、前方後方墳は物部氏族、より広くは饒速日命(ニギハヤヒノミコト)系氏族の墳墓か、と言っていますが(「古代信濃の謎」『続著作集』1)、聴くべき見解であり、今後の検証が期待されます。
皿 富士吉原浅間古墳と駿河国造
1.浅間古墳は高尾山古墳につづく前方後方墳(全長103m、未掘)で、そこに葬られた人物は伊香色雄の子、物部氏第七代の十市根命(トオチネノミコ)であり、更にその子の片堅石命(カタガタシノミコト)が、成務朝(没年355)に珠流河(スルガ)(駿河)国造(クニノミヤツコ)となった(国造本紀)と伝えられています。
十市根命は、開花・崇神朝(AD230頃~258)という大和王権成立
期の重臣五大夫の一人で、崇神朝の出雲の神宝検校に関わり(崇神紀・出雲(イズモ)振根(フルネ)事件)、また石上神宮の神宝管理にも当たったとされています。また、物部の姓はこの時はじめて十市根命とその兄大新川命とに与えられ、ともに大連となったと伝えられています(天孫本紀)。
片堅石命の墳墓は、浅間古墳の西方、谷一筋隔てた丘陵上の東坂古墳(全長約60m)と推定しています。
2・浅間古墳は高尾山古墳の西方約12kmの丘陵上にあり、眼下には浮島ヶ原(かつては沼)が東西に延び、そのほぼ中央部の丘の上に位置しています。直下の集落が須津(スド)の名をもち、かつては沼の北岸、根方街道の津・港の一つであったことを偲ばせます。湖沼内の移動は勿論、外海への水路はここから通じていたと思われます。
墳丘南の平坦地に立てば、左に伊豆西海岸の雲見山、右は三保ヶ崎辺りまで、鳥が翼を広げたごとく駿河湾を展望できます。
3.ところで、浮島の名は何に由来するものでしょうか。和名抄郡部の富士の読み方に「浮(フ)志(ジ)」と記してあることから、浮島とは元来は浮はフ、島はシマのシをとって、フシまたはフジと読ませたのではないか。つまり浮島沼とはフシ沼=富士沼ではなかったかと思います。では、富士とはなぜか。まだ解明し切れていませんが、沼・湖の縁辺にその地域の中心的な生活居住区が集中していたことからフチ(渕または縁)の地名が生まれ(例えば、大阪の河内はカワフチ⇒カワチが元義)、それが郡名にまで昇化したのではないでしょうか。富士山はフヂ(ジ)郡にある山だから富士山なのです。(都良香「富士山記」)
おわりに
1.今日の私の話を聞かれて「ほんまかいなあ」(関西)「ほんとかなあ」(関東)と思われた方がいるかと思います。しかし、ここでお話したことは日本書紀や古事記、とりわけ先代旧事本紀や国造本紀などの古典を虚心に読解し、遺跡・遺物などの考古学的所見などと突き合わせ、総合した結果であります。古代史学者・古代史家とは、言って見れば歴史の通訳です。古典の語るところ、遺跡・遺物のツブヤキを素直に聞き取り、肯定的に理解して、それらを総合して現代人に判り易く伝える者のことです。
2.そこで今一番問題になってくるのは、8世紀に成立した律令国家より以前、大和王権の時代とは、中国古典にいうところの「封建制」(秦漢帝国以前、周王朝の時代がその原型です)なのだということです。私はこの律令国家成立以前の社会の仕組みを、江戸時代の封建制と区別して「分封制」あるいは「将軍分封制」と呼んでいます。江戸時代から明治時代までの漢学者や国学者、或いは明治の史学者たちには常識的で理解しやすかったこのことが、近年ではほとんど忘れられるか、理解できなくなり、また市民的常識からは全くかけ離れてしまいました。
私は古典は古典として、まず素直に肯定的に理解すべきであると考え、また歴史の通訳という立場から、大和王権の時代をその社会の仕組みである将軍分封制の時代として理解し、およそ1700~1800年前の駿河・伊豆の歴史のひとこまを、高尾山古墳を中心に、浅間古墳や南信の弘法山古墳と関わらせて読み解いてみたのであります。
ご静聴ありがとうございました。
※原 秀三郎
1934年(昭和9年)、下田市生まれ、静岡大学名誉教授、元沼津市史編纂委員長、著書、『日本古代国家史研究大化改新論批判』(東京大学出版会)『地城と王権の古代史学』(塙書房)『日本古代国家の起源と邪馬台国 田中史学と新古典主義』(國民會舘叢書)共著、『古代の日本第7巻新版 中部』(角川書店)『大系日本国家史1古代』(東京大学出版会)

【平成28年2月13日第1回狗奴国サミットin沼津「高尾山古墳と狗奴国の魅力を知る」当日配布資料より】


狗奴国サミット
古代史ロマンに400人 沼津で第1回開催 /静岡

毎日新聞2016年2月14日 地方版




約400人が集まった狗奴国サミット=沼津市民文化センターで

「第1回狗奴国(くなこく)サミット」が13日、沼津市民文化センターで開かれた。存廃に揺れた高尾山古墳(沼津市東熊堂(ひがしくまんどう))の保存を応援しようと会場を沼津に選んだ研究発表会。古代史への関心が高まる中、約400人が耳を傾けた。

狗奴国は邪馬台国と対立していたと考えられる魏志倭人伝に登場する国。サミットで原秀三郎・静岡大名誉教授が「高尾山古墳の被葬者は物部氏だ」とする独自説を発表。森岡秀人・奈良県立橿原考古学研究所共同研究員が「狗奴国は天竜川以東にある」とする説を発表した。原名誉教授の熱弁に会場がどよめく場面もあった。また「高尾山古墳を守る市民の会」の杉山治孝代表はあいさつの中で「古墳保存の署名では全国のみなさんに協力をいただいた」と感謝を述べた。

主催した全国邪馬台国連絡協議会の鷲崎弘朋(ひろとも)会長(73)は「古代史の解明が最終目標だが、多くの人が集まり地域おこしの点でサミットは成功した。高尾山古墳の保存活用方法の検討には会としても協力したい」と話した。【石川宏】


静岡)高尾山古墳は物部氏の墓か 静大名誉教授が仮説
2016年2月14日03時00分(朝日新聞webニュース)

東日本で最古級、最大級の古墳「高尾山古墳」(沼津市東熊堂)の被葬者は、古代の豪族「物部(もののべ)氏」の有力者とする仮説を、静岡大名誉教授の原秀三郎さん(81)が、沼津市で13日開かれた「第1回狗奴国(くなこく)サミット」の中で発表した。

サミットは、邪馬台国と敵対関係にあった狗奴国への関心を高めようと、古代史を研究する個人や団体でつくる全国邪馬台国連絡協議会が主催。高尾山古墳の被葬者は狗奴国王とする説もあり、沼津での開催が決まった。

原さんは元沼津市史編纂(へんさん)委員長。物部氏の系譜や、高尾山古墳から見つかった近江の土器、長野県松本市にある規模や築造年代が共通する弘法山古墳と富士市の浅間古墳との関係などから、被葬者は物部氏第6世代の伊香色雄命(いかがしこをのみこと)と推定したという。

伊香色雄命の政治的拠点は近畿の大和王権だったが領地は箱根にまで及び、沼津は海上交通の要衝だったことから近畿との間を度々往復しただろうと推測している。

原さんは「日本書紀や古事記などの古典を読み解き、出土品など考古学的所見を突き合わせれば答えは出てくる」と話した。



高尾山古墳は物部氏の墓? 原・静大名誉教授が仮説
東日本最古級の古墳の主(あるじ)は誰なのか-。沼津市の道路建設予定地で見つかったことから、一時は取り壊しの危機にあった高尾山古墳(沼津市東熊堂)について、原秀三郎(ひでさぶろう)静岡大名誉教授(81)が古代の有力豪族・物部(もののべ)氏の有力者が埋葬されたとする仮説を打ち出した。築造時期が三世紀で邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)と重なるため、敵対した狗奴国(くなこく)の有力者とする説もあり、議論になりそうだ。

仮説を主張する原さんは、元沼津市史編纂(へんさん)委員長で下田市在住。高尾山古墳は、二〇〇八年に始まった市の調査で見つかったため、原さんらが〇五年に出した沼津市史に記載はない。高尾山古墳が三世紀の築造と分かり、古典などを手掛かりに仮説を立てた。

原さんは、古墳の主を、物部氏の第六世代である伊香色雄命(いかがしこをのみこと)と推定した。大和王権初期から政権に近く、近畿の河内国周辺を本拠にした。伊香色雄は三世紀の開化、崇神(すじん)両天皇の親族にあたり、大臣として神社制度をつくったとされる。

伊香色雄が活躍した場所は王権中枢の近畿だったが、領地が西は大井川から東は箱根におよんでいたという。とくに駿河湾内奥部にある沼津は交通の要衝で、死後に葬られたとみる。

仮説の根拠は、平安初期にまとめられた物部氏らの系譜を記した文献。高尾山古墳から近江国の土器が出土したことも理由とする。原さんは「古典を虚心に読解し、遺物などの考古学的所見と突き合わせた」と話した。

一方で、中国の歴史書「魏志倭人伝」に「女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみここ)ともとより和せず」とあることから、卑弥呼のライバルの有力者の可能性を挙げる人もいる。近畿などの前方後円墳と異なる前方後方墳は東海地方以東に多く、邪馬台国畿内説を前提にした場合、宿敵の狗奴国は東海説が有力視される。だが、狗奴国をめぐり、大和説や熊本説の異論がある。

原さんは十三日、考古学者らが集まり、沼津市で開かれる「狗奴国サミット」で仮説を発表する。狗奴国の研究発表もある。

<高尾山古墳> 墳丘全長62メートル、幅最大34メートルの前方後方墳。沼津市教委の発掘調査で、230年ごろに築造され、250年ごろに当時の有力者が埋葬されたと年代を特定した。古墳時代初期では、国史跡になっている弘法山古墳(長野県松本市)と並び、東日本最大級とされる。

(築山英司)(中日新聞webニュース)

高尾山古墳に「物部氏」
原名誉教授 被葬者を指摘 沼津
古代史専門家や歴史研究家でつくる全国邪馬台国連絡協議会(鷲崎弘朋会長)がこのほど、沼津市民文化センターで「狗奴国サミット」を開き、講演した原秀三郎静岡大名誉教授(81)は、3世紀前半に築造されたとみられる高尾山古墳(沼津市東熊堂)の被葬者を有力豪族物部氏第6世代で開化天皇、崇神天皇の大臣だった「伊香色雄命(いかがしこをのみこと)」とする持論を発表した。
沼津市史編さん委員長も務めた原名誉教授は、古墳の出土品に日本書紀や古事記などの文献を照らし合わせて結論を得たという。埋葬に使われた棺は、「古墳がある現在の金岡地区周辺の水路で使った小舟」と推論した。
高尾山古墳と築造年代や規模が似る弘法山古墳(長野県松本市)にも着目。沼津周辺と中信州エリアを結ぶ南北の地帯が大和王権の東万統治の最前線だったとし、「物部氏がここに配置されていた可能性は十分ある」と指摘した。
同サミットは初開催。邪馬台国と対立していた狗奴国の所在に関する研究発表も行われた。全国の会員ら約450人が聴講した。
【静新平成28年2月17日(水)朝刊】


会場満席、関心の高さうかがわせる
狗奴国サミット高尾山古墳と狗奴国の魅力
 古代史研究家などで構成される全国邪馬台国連絡協議会(鷲崎弘朋会長)が主催する「第1回狗奴国サミットin沼津~高尾山古墳と狗奴国の魅力を知る~」が先月、市民文化センター小ホールで開かれ、約四百五十人が来場。ほぼ満席となり、この分野への市民らの関心の高さをうかがわせた。
 狗奴(くな)国は、三世紀ごろの日本列島に存在した国。中国の歴史書『三国志』の一章、いわゆる「魏志倭人伝」に登場し、女王卑弥呼(ひみこ)で知られる邪馬台(やまたい)国と対立関係にあったとされる。
 東熊堂で発見された高尾山古墳は、狗奴国と関連があると見る説があることから、沼津でのサミット開催となった。
 サミットでは、来賓として「高尾山古墳を守る市民の会」の杉山治孝代表があいさつ。古墳の存在は沼津の気候や地理的環境の優位性を示すものではないか、と話した。また、サミットが多くの来場者に恵まれたことに触れ、こうした関心の高さが古墳保存に対する市長の判断を後押しすることを期待した。
 続いて、市内の考古学専門家らで構成される「高尾山古墳を考える会」の瀬川裕市郎代表が古墳保存問題の経緯を説明。先月二日の第3回協議会で古墳を回避する道路整備の諸案が出されたことを話した。その上で、古墳の保存や活用にとっては、同古墳と隣接神社境内を分断しない道路整備が望ましいことを強調した。
 この後、講演や発表が行われ、高尾山古墳に関しては、静岡大名誉教授で元沼津市史編集委員長の原秀三郎氏が高尾山古墳の被葬者について仮説を述べたほか、「魏志倭人伝」の記述では明確でない狗奴国の位置について、東海関東説、大和説、九州熊本説の三説が発表された。
 高尾山古墳 被葬者は誰?
 原秀三郎氏が持論を展開
 狗奴国サミットの基調講演者として登壇した原秀三郎氏は、「高尾山古墳に葬られたのは誰かー日本歴史に占める高尾山古墳の位置ー」と題して話した。その中で、同古墳の被葬者として、古代氏族の物部(もののべ)氏に属する伊香色雄命(イカガシコヲノミコト)ではないかとの見方を示した。
 沼津市史と高尾山古墳
 原氏は平成二年度から二十一年度までの十九年間にわたって実施された『沼津市史』の編さんでは、主に原始古代史部会長として携わった。高尾山古墳の本格的な調査は二十一年度まで行われたため、市史の中で同古墳を扱うことができず、非常に心残りだったという。
 また、原氏は考古学の研究成果を柱として論じられることの多い同古墳を、文献史料研究の側から論じることに強い意欲を示していて、今回の講演に当たっては「きょうは考えていることを率直にお話ししたいと思う」と力強く言い放った。
 物部氏と伊香色雄命
物部氏は、天上の神の一人だとされる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を先祖とする一族。大和朝廷に仕え、主に軍事を担当した。朝廷の高官として繁栄したが、六世紀末に仏教受け入れなどを巡る争いの中で破れ、本流は滅亡した。
 伊香色雄命は、その第六世代に属する。古代の歴史について書かれた『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』によると、第九代開化天皇と第十代崇神(すじん)天皇に大臣として仕え、石上(いそのかみ)神社を創立した。同神社は石上神宮として奈良県天理市に現存している。
 原氏は、伊香色雄命は近畿地方で活躍した人物であると認めつつ、現在の静岡県中・東部に当たる大井川から伊豆半島までの土地を領地としていた、と論じた。
 その根拠としては、伊香色雄命の孫の片堅石命(カタガタシノミコト)が第十三代の成務天皇によって珠流河(スルガ=駿河)国造に任命されたとの記述が、『先代旧事本紀』の中の一章を構成する「国造本紀」に登場することを挙げている。国造(くにのみやつこ、こくぞう)は、現在の県知事のような役職。
 また、高尾山古墳からは近江(滋賀県)の土器が出土していて、近江には古代より伊香郡があったことから、同古墳と伊香色雄命との関連が読み取れるという。
 原氏は、崇神天皇の時代は三世紀前半、成務天皇の時代は四世紀前半だと推定している。
 前方後方墳と物部氏 原氏は、高尾山古墳と同時期の三世紀前半に築造され、同じ「前方後方墳」という形状である弘法山古墳(長野県松本市)も物部氏系の人物と関連があると論じた。
 それによると、現在の長野県から静岡県東部にかけてのラインは、当時の大和朝廷の東の国境地帯であり、国境を守るために軍事の専門家である物部氏が派遣された、と見ている。
 また、原氏は栃木県東部にある前方後方墳の侍塚古墳(*)が、那須国造(**)に任命された阿倍氏と関連があると見ていて、阿倍氏も物部氏の血を引いていることから、前方後方墳と物部氏とのつながりは深いと考えている。
 原氏は、こうした東日本に存在する前方後方墳と物部氏とのつながりから、現代の言葉で「将軍分封制」と呼べるような地方支配制度が当時の大和朝廷にはあったのではないか、と提唱した。これは、物部氏のような軍事を得意とする氏族に国境最前線の領地を与え、その土地の行政や防衛を任せるという制度だという。
 終わりに 高尾山古墳に葬られたのは伊香色雄命である、という仮説に対し、多くの疑問の声が上がるであろうことを原氏は理解している。
 しかし、原氏は『日本書紀』や『古事記』『先代旧事本紀』などの古典文献を丹念に読解し、これらの記述を素直に理解するという前提に従って、「歴史の通訳」として議論を展開したという。

 (*)栃木県大田原市にある上侍塚古墳・下侍塚古墳の総称。同市教委のホームページによると、いずれも前方後方墳で、五世紀以前に築造された。下侍塚が先に築かれたという。
 両古墳は徳川光圀(水戸黄門)が発掘調査を行ったことで知られている。実際に調査を担当したのは佐々宗淳(さっさ・むねきよ)という人物で、介三郎(すけさぶろう)という別名のある宗淳は、時代劇に登場する「助(すけ)さん」のモデルとされている。
 (**)那須地方(栃木県東北部)を支配した国造。
【沼朝平成28年3月8日(火)号】


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