平成27年6月20日(土)
平成27年度第3回
『沼津ふるさとづくり塾』
榎本武揚は1862年、後に沼津兵学校頭取となる西周や同じく一等教授となる赤松則良、戸田出身の船大工・上田寅吉などとオランダに留学した。
箱館戦争と榎本武揚
講師 国立歴史民俗博物館教授
樋口雄彦
会場 沼津市立図書館視聴覚ホール
主催沼津史談会 後援 沼津市・同教育委員会
箱館戦争と榎本武揚一静岡藩・沼津兵掌校との関わりを中心に一
樋口雄彦(国立歴史民俗博物館)
2015年6月20日 沼津史談会
1 駿河移住と榎本脱走艦隊
清水港の海軍学校計画/水利路程掛・航運方/同行を断られた赤松則良/脱走を引き止めようとした江原素六/美加丸遭難で断念した中根淑・山田昌邦・本山漸/引き裂かれた父子兄弟/榎本武揚と舅林洞海/荒井郁之助と田辺太一・浅井道博/松岡譲・馨父子/伊庭人郎・想太郎兄弟/吉沢勇四郎・竹原俊勝・石橋好一兄弟/塚本明毅と二人の弟/赤松則良・吉沢才五郎兄弟/小林省三と小笠原賢蔵・横井時庸/松島玄雄・玄景父子
2 徳川家による榎本軍討伐計画
フランス留学から帰国途中の徳川昭武随行の渋沢栄一が上海で長野桂次郎から榎本軍への合流を説かれる(明治元年10月末)→新政府より駿河府中藩主徳川家達に対し榎本軍追討命令(11月6目)→総括河田煕のもと沼津で2大隊の派兵が下命(10日)→新政府内で慶喜の箱館派遣が決定(14日)→勝海舟に対し慶喜出兵中止が伝達(22同)→水戸藩主徳川昭武に対し榎本軍追討命令(24日)→水戸藩に対する追討命令撤回(明治2年1月10目)
※「朝大三郎方ニ行話を聞云開陽はしめ五艘之軍艦十月廿八日ニ箱館松前をとる依之東京より駿府ニ大譴責之云来るニ付一翁安部邦之助早打ニ而東京ニ出ると云」(林洞海「慶応戊辰駿行目記」明治元年11月14日条)
3 箱館戦争降伏人の帰参
脱走者の帰参/降伏人の活用/沼津兵学校教授に採用された本多忠直・山口知重・杉浦赤城・梅沢有久/赦免後に沼津に来学した岡崎藩士子柳津要人
4 御貸人としての活用
阿部潜・小林弥三郎らの鹿児島藩派遣/蓮池新十郎による教育改革/堀田維禎の数学指導/名古屋藩の軍制改革/和歌山藩の工兵創設※新政府への出仕:上田寅吉
5 鹿児島藩との交流と和解
人見寧の鹿児島遊学/薩摩の士風からの影響/集学所/剣客と志士/市来四郎の沼津兵学校視察/鹿児島での戊辰戦死者慰霊
史料1 江原素六と榎本武揚の会談
榎本武揚氏と芝の浜御殿、今の離宮に於て会合のことがありました、(中略)脱走したならば、先づ十に八九は死んでしまふと見なければならぬ。日本の国から船乗をなくすることは国家に取つて甚だ残念に思ふ。さうして北海道に行つて割拠して居つても、兵士が動もすると帰りたがるのは情であつて、妻子を東京に置いて、北海道に居ることは六ケしい。さうして又官軍から弾薬の見舞を受けるやうな訳で成功は何うであらうか、それよりは今貴下が脱走を見合はすれば、朝廷では巡洋艦、運送船と云ふやうなものを賜はるであらうし運転する金も、或ひは出来るだらうと思ふ。それを以て貴下は日本の海上の運搬に従事して、さうして部下を養つて段々欧羅巴などの交際の発達を計ることは何うであらうかと云ふ事を申したのであります。その時に榎本氏は一言の下に、それはいけないと云はれた
(江原素六『急がば廻れ』、1918年、東亜堂書房)
史料2 陸軍による海軍脱走阻止の試み
六月八日品川艦泊開陽丸榎本釜次郎江談判ニ越ス、六月十二日陸軍改正之御用取扱被申付、六月廿四日森田幸太郎方ニ而男児出生ス 七月二日官借之乗馬会計所江返却ス、七月五日大砲組之頭並被申付、同日陸軍会計御用取扱被申付、七月十日陸軍頭其他一同浜軍艦所江罷越シ榎本等ト訣別ス、八月十四日竹島町出立会計所より阿部其他ト乗船、夜九時スク子ル阿墨利加船ニ乗込、十五日下田港着、碇泊十八日迄、同港風待同〇九時押送船ニ而豆州安良利村上陸、一泊、翌十九日押送船ニテ清水港上陸、夜ニ入駿府着ス、八月廿日より城ノ東加番屋式跡江陸軍役所取設ケ、出勤ス、八月廿八日府中陸軍会所出立、翌廿九日沼津宿着、蓮光寺江泊ス、八月晦日より沼津城江出勤ス、八月晦日より沼津上ケ土町明キ家江仮住居ス、九月四日より東沢田村江藤俊平方江寓居ス、(樋口「立田彰信の「日記摘録」」『沼津市博物館紀要』29、2005年)
史料3 戸田村出身の上田寅吉
「畏多くも御稜威に背く罪を深く後悔してゐた彼は、箱館上陸以来、絶えず賊軍の手から脱走しようと、その機会をねらつてゐたのであつた」(興梠忠夫『近世名船匠伝綾豊治』、1943年、東山書院)
史料4 まぼろしの清水海軍学校
郡奉行え
海軍学校御取建之儀、当分之内江尻宿河尻村曽我主水元陣屋、仮ニ模様替取計、学校御開相成候間、可被得其意候
海軍学校頭え
清水港海軍学校御取建之儀、差向手重ニ付、当分之内江尻宿在河尻村曽我主水元陣屋、仮ニ模様替取計、学校相開候様可被致候、尤右場所請取方・模様替等之手続、御勘定頭申談可被取計候事
右十一月十六日、次郎八殿御渡し、御勘定頭えも(『静岡県史資料編16近現代一』)
佐々倉桐太郎
肥田浜五郎え
海軍局之儀、以来被廃止候ニ付、行速丸ハ御勘定所ニテ進退致し、同艦乗組之者ハ御勘定所附属運漕方と被 命候間、得其意、委細之儀ハ御勘定頭可被談候、(中略)
右正月廿三日、和泉殿御渡し、
海軍学校頭
佐々倉桐太郎
肥田浜五郎
福岡久右衛門
運送方頭取被 命之
右、
御直ニ被 命之
(後略) (『静岡県史資料編16近現代一』)
史料5 箱館戦争戦死者の家名相続
家名相続奉願候書付
元高拾五俵壱人扶持 元御小人
内海亀三郎
私祖父金次郎死三男
亀三郎実弟
家名相続者 安原源四郎
午歳二十四
右亀三郎儀明治元辰年八月十九日脱走仕家族壱人者当時浜松表ニ於テ御扶助被成下置候所当主脱走先ニ而死亡之者家名立被下候旨今般被命候ニ付而者同人弟義昨巳年四月十七日松前城下折戸台ニ於テ戦死仕候寺沢槻太郎見届相違無御座候ニ付亀三郎跡家名相続之義同人実方弟私厄介伯父安原源四郎江被命御藩籍江御差加被成下候様浜松表由緒大塚賀久治願出候間於私義同様此段奉願候以上
明治三午年十月 弐番頬十八番 安原金次印
(樋口『海軍諜報員になった旧幕臣ー海軍少将安原金次自伝―』、2011年、芙蓉書房出版)
史料6 箱館からの帰還者の就職ー岩橋教章の履歴書ー
慶応四年人月十八日 開陽艦ニ乗シ脱走
明治二年五月二十一日 於函館表謹慎
明治三年四月十日 禁鋼御免御藩へ御引渡ニ相成
明治三年五月五日 於静岡表其身一代御藩籍ニ入三等勤番組ノ頭支配ニ罷成
明治三年五月七日 静岡学校附属絵図方被命
(塚原晃「近代美術と地図ー川上冬崖と岩橋教章"ー」『神戸市立博物館研究紀要』第17号、2001年)
史料7 箱館からの帰還者の就学一山口知重の履歴密一
学業履歴
陸軍助教山口知重
嘉永三年十一月十六日生
文久元年正月元松前藩士族松山章ニ就テ漢学ヲ学フ
元治元年三月故陸軍大佐武田成章ニ就テ英語ヲ学フ
慶応二年旧幕臣貝塚道次郎ニ就テ化学ヲ学フ
明治元年維新ニ際シー時廃学
同 二年山内提雲ニ就テ英学数学ヲ学フ
同 三年沼津学校ニテ数学英語ヲ学フ
同 四年同校兵部省付属ト為ル翌五年四月廃校セラル
(樋口「沼津兵学校関係人物履歴集成その二」『沼津市博物館紀要』27、2003年)
史料8 名古屋藩への御貸人
「山岡へ、中川表五郎尾州へ遣わすべき旨、申し遣わす」(勝海舟日記・明治4年1月28日条)、「尾州・中川長五郎より一封使い差し越す。大岡家宜しからざる旨なり」(同前・5月7日条) ※同藩では4年3月に静岡藩から「仏国式銃隊教師」を招いて兵学校を開いた。沼津兵学校資業生大岡忠良も同藩へ派遣された。
史料9 和歌山藩への御貸人
①「浜口儀兵衛、近藤清五郎、国許へ、小菅辰三郎、借受け度き旨申し聞け、早速返答承り度き旨につき、宜しき由答え、小菅へ一封遣す」(勝海舟日記・明治3年11月11日条)、「戸川平太へ、小菅辰三郎の事談ず」(12日条)、「小菅辰三郎、明後日紀州行きの暇乞、刀一本遣わす」(25日条)、「藤沢長太郎、小菅の事、沼津より同行の者の事等談ず」(27H条)、
「小菅辰三郎、沼津よりの書状、筒井於兎吉、和歌山へ同道の旨」(12月12日条)
②(十二月十三日、次郎八殿御渡)※明治3年
庶務掛へ
監正掛
浜松勤番組之頭支配
二等勤番組
筒井於蒐吉
右工兵教授として若山藩より被相頼度旨申越候間、罷越候様可申渡候、庶務掛、監正掛可談候(『久能山叢書』第五編、1981年、久能山東照宮社務所)
史料10 鹿児島藩士と静岡藩士の和解
当時旧幕臣にして薩・長・土を怨望する甚し、(中略)之を和解すること、国家の要点なるを以て、予内田政風・伊集院兼寛と議し、旧幕士宇都宮三郎・山縣十蔵・阿部潜等と交はり、互ひにその所懐を叩き、榎本亨蔵・桑原清蔵・赤松大三郎・松元良順等の人々と倶に周旋す同年夏(月日不詳)、予は阿部潜と同行、沼津に行き、兵学校を視察す、然して静岡に至り、山岡鉄太郎・大久保一翁を訪ひ、時事を談したり、是を徳川家人の悪感情を解くの端緒とす、尋て同校の教員数名(前島密外数人)を雇ひ、鹿児島に遣る」(中略)又伊地知正治と謀り、戊辰上野戦亡者の石碑建設の議を建つ、鹿児島人中に募金して、助成するの趣意を主唱せり、是旧戦国時代、日向木崎原にをいて伊東家と戦ひたるとき、敵方の戦死者を先代義久・義弘二公、追弔の古事に則りしなり、当時戦亡者の屍ハ、上野山王台に火葬したる侭、土墳草藪の中にあるを見て、回想したるに仍れり、阿部潜・榎本亨蔵の諸氏落涙感歎して、頗る感情を和けたり(「市来四郎君自叙伝」『鹿児島県史料忠義公史料第七巻』、1980年、鹿児島県)
史料11 榎本武揚の沼津旧友会への出席
明治34年12月1日、35年4月26日、35年12月1日、36年5月2日、36年11月28日、40年10月23日※会場の多くは東京向島・八百松楼
(石橋絢彦「沼津兵学校沿革(七)」『同会会誌』第44号、1917年)
※碧血会に参加した沼津兵学校関係者:山田昌邦
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