2013年2月3日日曜日

興国寺城跡東側曲輪で確認

 興国寺城跡東側曲輪で確認


 国指定史跡の興国寺城跡(根古屋)の平成二十四年度発掘調査現地説明会が昨年末に開かれ、城の北東側にあった清水曲輪(しみずぐるわ)で発見された堀切や建物の跡について、市文化財センターの木村聡学芸員が説明した。
 堀切とは、山の尾根を分断するように作られた空堀のことで、尾根伝いに進んでくる敵兵の行動を妨害するためのもの。堀切は清水曲輪の北側にあり、建物跡は南側で発見された。当時の興国寺城は南に沼地が広がっており、敵にとっては攻めにくい地形だったことから、北からの襲撃に備えて堀切が造られたと見られている。
 また、同城内の他の空堀と、今回発見された堀切の構造比較から、清水曲輪の堀切は同城を武田氏が支配した元亀三年(一五七二)以降に造られた可能性が高いという。
 清水曲輪は絵図などには記載されておらず、当時の名称は不明。現在残っている地名(小字)から、清水曲輪と呼ばれている。
 興国寺城は、北条早雲(伊勢盛時)が駿河の大名今川氏の内紛解決に尽力した功績として、長享元年(一四八七)に周辺の領地と共に今川氏親(義元の父)から与えられた。氏親の母北川殿は早雲の姉妹、早雲は興国寺城を拠点に、伊豆や相模(神奈川県)に勢力を拡大。興国寺城一帯は今川氏に返還されたが、北条氏には、この一帯が本貫(本籍地)だという意識が残り、後に北条軍が駿河に侵攻する河東一乱の遠因にもなったという。武田氏や北条氏の争奪の対象となったが、最終的には徳川家康家臣の天野康景が城主となり、江戸時代初期の慶長十二年(一六〇七)に廃城となった。
 市教委では、平成十五年度から同城の発掘調査を行い、調査終了後は史跡公園としての整備を予定している。
《沼朝平成25年2月3日(日)号》

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