2013年2月3日日曜日

甲斐武田氏と沼津、三枚橋城上下(沼朝記事)

甲斐武田氏と沼津、三枚橋城
 城将高坂源五郎を探る歴史講座




 市教委は一月二十七日、歴史民俗資料館講座を三枚橋町の市立図書館で開いた。武田氏研究会副会長の平山優氏が「甲斐武田氏と沼津三枚橋城将高坂源五郎を探る」と題し、戦国大名の複雑な外交戦略が県東部地方に与えた影響と三枚橋城の関係について論じたほか、実質的な城主を務めた高坂源五郎の実像について、新資料を交えて話した。戦国時代ファンら約百六十人の市民が来場し、平山氏の話に耳を傾けた。

 駿東めぐる戦国大名の争い
 武田氏研究の平山優氏が講演

 「静岡県は(戦国時代研究で有名な)小和田哲男さんの本拠地。きょうの私は、(武田信玄のように)甲斐から駿河へ侵攻してきました」と冒頭で話した平山氏は東京都出身。大学院修了後、山梨県の教員採用試験に合格し高校赴任の辞令を交付されるが、そのわずか三時間後に同県埋蔵文化財センター赴任の辞令を受け、以後は文化財調査や県史編さんに携わり、昨年から高校の教員を務めている。武田氏について研究しており、架空の人物との説もある戦国武将「山本勘助」の実在性に関する研究で知られている。
 河東一乱最初に平山氏は、戦国時代の沼津を知る上で重要な言葉として「河東一乱」を紹介した。
 「河東」とは富士川より東の地域を指す言葉で、当時の富士郡と駿東郡。河東一乱とは、この二郡を巡る今川氏と北条氏の奪い合いのこと。
 天文五年(一五三六)、駿河(静岡県)の大名今川氏では、当主の氏輝とその弟、彦五郎が同時に急死した。この後、今川氏当主の座を巡って、出家して僧侶になっていた、氏輝の弟達が争うことになった。「花蔵の乱」と呼ばれるこの争いで勝利した栴岳承芳(せんがくしょうほう)が当主となり、今川義元と名を改めた。
 この当主交代によって、今川氏では外交上の変化が起こった。氏輝の時代は相模(神奈川県)の北条氏と友好関係を結んでいたが、義元は、甲斐の武田氏と友好関係を築き始めた。そして、義元が政略結婚で武田氏の当主信虎(信玄の父)の娘を妻に迎えたため、武田氏と対立していた北条氏の怒りを買うことになる。北条氏の当主氏綱(北条早雲の子)は、軍勢を送って今川領となっていた河東の地を占領した。
 これにより、今川・武田の同盟と北条の争いという図式となった。当時の北条氏は関東地方で上杉氏とも戦っていたから、北条氏は敵対勢力によって包囲されることとなった。
 第二次河東一乱と三国同盟この図式が崩れ始めるのは天文十年(一五四一)。武田氏では、信玄が父の信虎を追放して新当主となった。信玄は北条氏との戦いを停止し、信濃(長野県)への進出を始めた。北条氏では武田嫌いだった氏綱が死去し、子の氏康が当主となった。
 信玄は、武田、今川、北条の和解を模索する。この結果、幕府将軍足利義晴の指示を受けた京都の高僧が三氏を訪れて和平の仲介を行うが、北条の反対で破談となった。これに怒った義元は、軍勢を集めて北条に占領きれていた河東に侵攻。信玄は義元を支援し、善得寺(富士市)で両者が面会して同盟が結ばれた。
 平山氏は「大河ドラマなどでは、この時、善得寺に北条氏康も来たように描かれることもあるが、それは作り話」だと指摘する。
 この同盟により、武田軍は大石寺(富士宮市)へと進軍し、吉原城(富士市)の北条軍を攻めていた今川軍と合流する動きを示した。北条軍は吉原城から撤退し、長久保城(長泉町)へと引き上げた。今川と武田の連合軍は、岡宮(沼津市)へと進み、長久保城を攻撃した。
 戦いの間、信玄は今川を支援する一方で、北条とも秘密交渉を続けていた。北条はこの交渉に応じ、河東の地を今川に返還し、黄瀬川を国境とすることで和平が結ばれた。また、この後に武田、今川、北条の三氏は政略結婚を行って親戚同士となり、いわゆる三国同盟が結ばれることとなった。

 同盟崩壊の前触れ
 「大大名が長期間にわたって同盟を結び続けたのは、とても珍しく画期的なこと」と平山氏が指摘する武田、今川、北条による三国同盟は約二十年続いた。これが崩壊するきっかけとなったのは、永禄三年(一五六〇)の桶狭間の合戦だった。
 この戦いで義元が戦死すると、今川氏は弱体化していき、信玄は今川攻めを考えるようになる。
 ところが、信玄の息子の義信は義元の娘を妻に迎えており、今川との戦いに反対し、親子の対立となった。永禄八年(一五六五)には、義信の側近武将達による信玄暗殺計画が発覚し、義信は次期当主の座を奪われ、義信派の武将達は処刑された。義信は寺に監禁されていたが、翌々年に死亡する。
 この情勢を見た義元の子、氏真(うじざね)は武田氏を警戒し、信玄の宿敵である越後(新潟県)の上杉謙信と秘密交渉を開始。今川と上杉の接近を知った信玄は、三河(愛知県)の徳川家康と手を組み、今川を攻めることになった。
 信玄の駿河侵攻永禄十一年(一五六八)、武田軍が今川への攻撃を開始すると、娘が今川氏真に嫁いでいる北条氏康は激怒し、今川への援軍を送った。そして、武田との戦いに専念するため、宿敵の上杉謙信との和平交渉を開始した。
 徳川軍も遠江(静岡西部)の今川領を攻めたため、武田・徳川連合と今川・北条・上杉連合の戦いという図式が生まれた。信玄は駿府(静岡市)を占領したが、大宮城(富士宮)や深沢城(御殿場市)では北条軍との戦闘が続いた。
 一方、西では遠江の領土分割を巡って、武田と徳川の間で論争となり、関係が悪化していた。
 情勢の悪化を見た信玄は駿河攻略を一時諦め、北条氏との戦いに専念することとした。信玄は関東へ向かい、関東に点在する北条氏の城を攻撃。また、北条の本拠地である小田原城を攻撃して城下町を焼き払ったほか、三増峠(みませとうげ)の合戦で北条軍を打ち破った。こうして北条氏に大打撃を与えた信玄は、駿河攻略を再開。駿河各地を着実に支配下に置いた。
 元亀二年(一五七一)、北条氏当主の氏康が死去し、子の氏政が後を継いだ。氏政は外交方針を転換し、武田と和解。関東地方を巡って対立のある上杉と再び戦うこととした。
 北条と武田が駿河で争っている間、北条は上杉に武田の背後を攻めるように要請していたが、上杉がこれを無視していたため、北条は上杉の態度を不審に思い始めたことが外交転換のきっかけの一つになったという。この結果、北条と武田の間に再び同盟が結ばれた。
 信玄は、東の敵がいなくなったため、西に目を向けた。徳川家康や織田信長との戦いを始め、三方原(みかたがはら)の合戦で勝利するなど、戦況を有利に進めた。
 信玄と謙信の死 徳川・織田との戦いが続いていた天正元年(一五七三)、武田信玄が死去した。子の勝頼が当主となって戦いを続けたが、同三年(一五七五)の長篠の合戦で大敗し、情勢は逆転する。
 同六年(一五七八)には、遠くから駿河の情勢に影響を与えていた上杉謙信が死去。謙信は独身で子がいなかったため、養子を迎えていたが、この養子達が次期当主の座を巡って争うこととなった。「御館(おたて)の乱」と呼ばれるこの戦いでは、謙信の姉の子、景勝(かげかつ)と、北条氏出身の景虎(かげとら)の二派による内乱となった。
 北条氏が景虎を支援したため、景勝は武田に支援を要請。勝頼が、この要請に応じると、武田と北条は、またもや対立することに。勝頼が、あえてこのような危険な外交を展開したのは、父信玄が行ったように、武田が仲介者となって武田、上杉、北条の新三国同盟を結ふことが念頭にあったからではないか、と平山氏は分析する。
 しかし、内乱で景勝が勝利し景虎が敗死すると、勝頼の新同盟構想は崩壊し、武田と北条は完全に敵対することとなった。
《沼朝平成25年2月3日(日)号》

甲斐武田氏と沼津、三枚橋城下
 城将高坂源五郎を探る歴史講座
 書状に見られる三枚橋城
 江戸時代の沼津城とは別もの
 武田、北条、今川、上杉といった戦国大名達の外交戦略を解説した平山氏は、続いて三枚橋城の登場と、その城将となった高坂源五郎の実像について、当時の書状を紹介しながら論じた。
 三枚橋城の登場 天正七年(一五七九)九月三日。北条氏政は、関東地方の武将、千葉邦胤(ちば・くにたね)に書状を送った。その中で氏政は「武田勝頼は私と同盟を結んだはずなのに、上杉を巡る争いでは敵対行動をとっている。しかも、我々の境である『沼津』という土地に城を築いている。だから私も対抗して城を築くので、支援してほしい」と記した。
 平山氏は、同盟相手との国境地帯には城を造らないし、既存の城があっても破壊するのが当時の常識であった、と説明。勝頼が「沼津」に建設した三枚橋城こそが、武田と北条の同盟決裂のきっかけになったと指摘した。
 氏政が千葉氏への手紙を書いた二週間後の九月十七日、勝頼は上杉景勝に対して書状を送った。その中で、勝頼は三枚橋城が完成したことを知らせている。また、この書状と一緒に春日信達という武将による書状も届けられており、その中で信達は、自分が三枚橋城の管理を任されたことを述
べている。
 さらに平山氏は、二〇一二年春に発見されたばかりだという新史料を紹介した。それは天正八年(一五八〇)五月に勝頼が真田昌幸(幸村の父)らに出した手紙で、三枚橋城の修築を急ぐよう指示を出しているが、宛名の中に信達も含まれている。
 三枚橋城は狩野川を天然の堀とし、城の出入り口には「丸馬出し」という武田流の築城に特徴的な防御施設を備えていた。勝頼は、自分の新たな本拠地として天正九年(一五八一)に新府城(山梨県韮崎市)を築いており、これが武田氏によって最後に作られた城となった。三枚橋城は最後から二番目の城になるという。
 春日信達 ここで平山氏は勝頼から三枚橋城を任された「春日信達」という武将について解説した。
 信達は、武田信玄の優れた家臣で武田氏の事績を記した軍学書『甲陽軍鑑』の作者ともされる春日虎綱の次男。虎綱は「高坂弾正(こうさか・だんじょう)」の名でも知られる。もともと甲斐の大百姓、春日家に生まれた虎綱は、武田信玄に才能を見込まれて武士となった。その後、信濃の名門、香坂氏の名跡を継いだ。このため、本名は「香坂」だが、通称として「高坂」が用いられたため、高坂の名で知られるようになった。
 高坂弾正は、信濃北部の海津城を任された。この一帯は、川中島の合戦の舞台となった土地で、弾正は上杉氏への防衛や交渉を担当していた。弾正には昌澄(まさずみ)という長男がいたが、長篠の合戦で戦死したため、次男の信達が後を継いだ。甲陽軍鑑では、信達のことを「高坂源五郎」と呼んでいる。
 上杉景勝と同盟し、北条や織田・徳川と戦うことになった勝頼にとって、北条軍の進撃を食い止める役割の三枚橋城は、極めて重要な坂であった。そして、上杉に備える必要もなくなったため、これまで上杉対策という重要任務を担当していた高坂家の人間が三枚橋城に派遣されることになったという。
 武田の滅亡と本能寺の変 天正七年、北条と徳川が同盟を結び、東西から武田を攻撃し始めた。勝頼は、文字通り東奔西走して両軍と戦い、西の高天神城(掛川市)と東の三枚橋城が武田軍の拠点となった。
 そして、天正十年(一五八二)に、織田信長の軍勢が、いよいよ武田氏への攻撃を開始する。北条軍も三枚橋城に迫る中、春日信達は甲斐にいる勝頼の身が危ういことを知り、城を捨てて勝頼のもとに駆けつけるが、勝頼からは城を放棄したことをとがめられたため、かつての本拠であった海津城へと退散した。三枚橋城は北条に占領され、後に徳川に引き渡された。
 武田氏の滅亡後、信達は、新たに海津城主となった織田の家臣、森長可(もり・ながよし)に仕えた。しかし、同じ年に本能寺の変が発生。信長が自刃すると、織田に支配されていた旧武田領は大混乱となり、森長可は城を捨てて逃走。海津城一帯は北条と上杉の奪い合いとなった。
 この頃、上杉の家臣となっていた信達は、北条に味方した真田昌幸に勧められて上杉から北条に寝返ろうとするが、計画が発覚して処刑されたという。
 三枚橋城と春日信達について語り終えた平山氏は、「武田勝頼は三枚橋城を造ったことで、北条と争うことになった。北条との戦いで三枚橋城救援を優先したことで、西の高天神城の救援が遅れて落城した。高天神城の落城によって『勝頼は家臣を見捨てる』という評判が家臣の間に広がり、信頼を失った武田家は内部崩壊し、滅亡につながった」とし、武田氏滅亡など戦国時代後期の国内情勢に対して、三枚橋城や沼津の地が大きな意味を持っていたことを強調して講演を終えた。
 三枚橋城
 武田勝頼によって天正七年(一五七九)に、現在の三枚橋町一帯から、その南にかけて築かれた城。築城当の名称は不明だが、天正十八年(一五九〇)の記録では、「三枚橋城」の名で登場する。江戸時代、初期の慶長十八年(一六一一二)、当時の城主、大久保忠佐が跡継ぎなく死去したのに伴い廃城。
 安永六年(一七七七)の沼津藩成立により築かれた沼津城は、三枚橋城とほぼ同じ位置に築かれた別の城。
 高坂源五郎(春日信達)は、城や周辺の土地を支配する領主でないため、「城主」ではなく「城将」と呼ばれる。
《沼朝平成25年2月3日(日)号》

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