2013年2月28日木曜日

運慶作仏像国宝に

 運慶作仏像国宝に
伊豆の国 「願成就院」所蔵 文化審答申

 国の文化審議会は27日、伊豆の国市寺家の願成就院が所蔵する「運慶(うんけい)作諸仏」をはじめ、快慶の「木造騎獅文殊菩薩像(もくぞうきしもんじゅぼさつぞう)」などの仏像群と、平安時代から明治時代の史料「醍醐寺文書聖教(だいこじもんじょしょうぎょう)」の計3件を国宝に指定するよう、下村博文文部科学相に答申した。事務手続きを経て正式に指定される。「韮山代官江川家関係資料」と「江川家関係写真」(伊豆の国市)、「明ケ島古墳群出土土製品」(磐田市)の3件を含む50件の重要文化財指定も併せて答申した。
 「運慶作諸仏」は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した仏師運慶が1186年(文治2年)、鎌倉幕府の初代執権として知られる北条時政の依頼を受けて制作した。いずれも木造の「阿弥陀(あみだ)如来坐像」「不動明王及二童子立像」「毘沙門天立像」の計5体で構成される。
 仏像の胎内から発見された木札などから、運慶の真作と判明した。運慶の優れた彫刻の技術を伝えるだけでなく、力強さと写実性を特徴とする鎌倉時代の彫刻をリードした「運慶様式」を確立した作品であることが評価された。
 彫刻の指定は中部地方で初めて。県教委によると、県内関係の国宝指定は2010年12月の「久能山東照宮本殿、石の間、拝殿」(静岡市駿河区)以来で、通算13件目。重要文化財は今回の指定を含め、計220件になった。
◎ 願成就院 創建は1189年(文治5年)。北条時政が源頼朝の奥州藤原氏討伐の戦勝を祈願して建設したとされる。その後約半世紀にわたり堂塔などが次々と増築され、繁栄した。15世紀末、北条早雲が堀越公方・足利茶々丸を攻めた際に多くの建物を焼失。江戸時代に入ってから再興した。今回、国宝指定が決まった運慶作諸仏をはじめ、生前の北条政子の姿を模したとされる「政子地蔵菩薩像」などを所蔵している。
《静新平成25年2月28日(木)朝刊》

願成就院の仏像国宝に
 若き運慶の技躍動 力強さと写実性備え

 27日の文化審議会の答申で、国宝に指定されることが決まった願成就院の「運慶作諸仏」(伊豆の国市寺家)。美術の専門家は「運慶の確立した鎌倉彫刻様式の礎となった作品」と指摘する。
 穏やかな顔の阿弥陀如来坐像、引き締まった表情で前を見据える不動明王立像と毘沙門天立像。国宝指定を受けた5体の仏像は、いずれも運慶の代名詞となっている力強さと写実性を兼ね備える。県文化財保護審議会委員で、三井記念美術館(東京都)の清水真澄館長(73)は「阿弥陀如来坐像の全身のボリューム感や、毘沙門天立像の体の動きなどはさすが運慶と思わせる」と話す。
 運慶が北条時政の依頼を受けて仏像を制作した時期は、武士が政治を担った鎌倉幕府の成立期と重なる。上原仏教美術館(下田市)の田島整学芸員(42)は「当時は美術の中心が貴族から武士に移っていく過渡期だった。運慶はこの作品で初めて自身の様式を打ち出し、その後の潮流をつくっていった」と指摘する。
 全国的にも数少ない運慶の真作との判断には、仏像の胎内に納められた木札が大きな役割を果たした。江戸時代に不動明王と毘沙門天を修復した際、運慶と時政の名が書かれた木札が見つかっていた。さらに昭和30年代、二童子立像をエックス線で撮影したところ、同様の木札が胎内にあることが分かり、研究が大きく進展した。
 清水館長は「若い運慶の躍動感あふれ造形も魅力。大変に意義深い国宝指定だと思う」と話した。

 「後世に伝えたい」関係者ら喜びの声
 中部地方で初となる彫刻の国宝指定の答申を受け、「運慶作諸仏」を所蔵する伊豆の国市の願成就院は喜びに包まれた。観光関係者の間からは今後の観光振興に期待の声が上がった。「度重なる兵火や災害を免れ、5体の仏像が今も残っていることが奇跡。国宝指定は本当にうれしい」ー。答申の知らせを受けた願成就院の小崎祥道住職(76)は、晴れやかな表情で語った。
 鎌倉幕府の執権を務めた北条一門が造営し、隆盛を誇った同寺も15世紀以降の北条早雲の堀越公方攻めや豊臣秀吉の小田原攻めなどに巻き込まれ、何度も焼失した。小崎住職は「仏像は当時の人々が持ち出すなどして、守り抜いたのだろう。後世までしっかり伝えるため、護持管理に一層努めたい」と力を込める。
 国宝指定を機に、仏像ファンなど参拝客の増加も見込まれる。伊豆の国市観光協会の安田昌代会長(69)は「伊豆の国の宝が知られる良い機会になる。北条氏や源頼朝ゆかりの地として、あらためてPRに取り組んでいきたい」と話した。

 江川家関係資料と写真/明ケ島古墳群土製品 県内3件の重文も誕生
 「運慶作諸仏」の国宝指定と同時に、県内に3件の重要文化財が新たに誕生した。
 「韮山代官江川家関係資料」と「江川家関係写真」は、江戸時代に歴代当主が韮山代官を務めた江川家に伝わる文書や洋書、武器、古写真など約3万9千点からなる。
 江川家は、平安時代に現在の伊豆の国市韮山地域に定着したとされる武士の家系。特に幕末期の第36代当主江川太郎左衛門英龍(坦庵)は海防政策に関心を持ち、西洋の知識の収集に取り組んだ。資料には、英龍の自画像と伝えられる肖像画や品川沖に築かれた台場の絵図、近代的な大砲の模型、韮山反射炉に関する文書などが含まれる。写真は全461点。いずれも幕末から明治前半に撮影された。中浜(ジョン)万次郎が撮影した第37代当主江川英敏や旗本小沢太左衛門、江川邸と韮山製糸場の遠景写真などがある。
 明ケ島古墳群出土土製品は磐田市明ケ島原の区画整理による調査で、5世紀後半に造られたとされる方墳の下から見つかった。
 5世紀前半の祭祀(さいし)に用いられたとみられる。過去に例のない多種多量な上に良好な状態の土製品で、時期や祭祀の実態を把握できるーとして、1064点のほか、破片計4千点以上が県指定有形文化財から格上げされた。人のほか犬やイノシシなどの動物、武器・武具、楽器、農具などを模した素焼きの立体像で、大きさは1~15㌢。人形は目や鼻、耳だけでなく男女を区別し、中には武器を装備しているものもある。琴は板琴(いたこと)や槽琴(そうごと)などの違いを細かく作り分けている。
《静新平成25年2月28日(木)朝刊》

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