2011年10月14日金曜日

沼津城から大手町


 沼津城の歴史など紹介
大手町町内会120年祝う 沼津で講演会


 沼津市大手町町内会の120周年を記念する講演会がこのほど、同市の大手町会館で開かれた。国立歴史民俗博物館教授の樋口雄彦さんが「沼津城から大手町へ」と題して講演した。
 元市明治史料館学芸員の樋口さんは、現在の大手町に江戸時代後期に築かれた沼津城や、明治初期に高い教育水準で注目された沼津兵学校を中心に、街の歴史や移り変わりについて紹介した。
「大手町の核は沼津城や兵学校。痕跡を生かして今後のまちづくりに生かしてほしい」と呼び掛けた。東海道沼津駅南口に位置する同町内会は1891年(明治24年)に創立し、市の商業の中心地として発展してきた。ユ20周年実行委員会の小栗敞委員長は「沼津城下町だった歴史を掘り起こし、大手町のPRにつなげたい」と話した。
(静新平成23年10月14日朝刊)

120年の歴史刻んだ大手町
幕臣移住からの足跡をたどる
 式典開き記念講演会
国立歴史民俗博物館 樋口雄彦教授講師に
 
 大手町町内会(早川重實会長)は町制百二十周年を迎え、十日、記念式典を大手町会館で開催。その一環として、国立歴史民俗博物館の樋口雄彦教授を講師に招いて記念講演会を開いた。樋口教授は、明治史料館の元主任学芸員で、沼津兵学校の研究者として多くの業績がある。
 「沼津城から沼津市大手町へ」と題して講演した樋口教授は、はじめに沼津城について解説した。
 沼津城 戦国の世からはるかに遠ざかった安永年間(一八世紀末)に築城。そのため、防備の厳重な実戦向きの城ではなかったという。樋口教授は、城について書き残された文献はとても少ない、と指摘しながら、同時代人の印象として三例を挙げた。うち二つは東海道を旅して沼津を通り掛った武士の日記や回想で、幕府代官職の林鶴梁は「守りが手薄で武風が衰えている」という内容を書き残している。幕臣子弟だった小野正作は城を見て「大手門の脇に、玩具のような三階建ての櫓があった」といった印象を抱いたという。
 また堀端に屋敷があった沼津藩士の子として生まれた三浦徹は、幼少時の思い出として、門番の目を盗んで堀で釣りをしたことを挙げている。
 樋口教授は「沼津城は小さな、のどかな城だった」としたうえで、「沼津城が最も輝いていたのは明治の初めの沼津兵学校時代」だとした。
 明治維新後、徳川将軍家は静岡藩主として駿河国に移ったが、領内には、移転前に存在した各藩の城がいくつも残っていた。静岡藩は駿府城以外の城は廃止し、「○○城」といった名称を「○○役所」と改名させた。
 沼津城も例外ではなく、「城」ではなくなり、それまでの城の建物は手を加えられて兵学校の校舎や兵器庫となり、本丸には生徒の寄宿舎が建設された。学校には、当代一流の教員が集まり、生徒の中からは多くの人材が輩出した。
 その一方で、城内にあった番所や木戸などは撤廃され、堀も埋め立てられて水田となり、城としての姿は失われた。
 東照宮と城岡神社 廃止された沼津城と現在の大手町とをつなぐのが、城岡神社の存在。
 同神社の起源は、沼津城内にあった稲荷社で、二代藩主水野忠成によって城の守護神として建立された。しかし明治七(一八七四)年、旧幕臣達が稲荷社に徳川家康を祭って東照宮とした。その後、同二十六二八九三)年に東照宮修築の動きが起こる。これは兵学校出身者らによる学校顕彰事業計画の一環で、記念碑の建立や「駿東小公園」の整備と合わせての修築案だった。
 計画では、東京の上野公園をモデルにした住民憩いの場を兵学校跡地に造る予定となっており、同校関係者からの寄付金も集められたが予定額に達せず、翌年、記念碑だけが建立された。現在、城岡神社境内にある記念碑は、この碑の二代目。
 樋口教授は、この顕彰事業計画について「もし、公園ができていたら、市街地の街並みは、がらりと変わっていたかもしれない。その場合、今のような大手町は存在していないかもしれないが」とした。
 東照宮は明治三十六(一九〇三)年、城岡神
社に改称された。
 大手町の新旧住民現在の大手町は、かつては武家屋敷の並ぶ武士の町だった。これに対して本町、上土町、三枚橋町は町人の町。この身分による住み分けは、明治以降に変化を始める。
 明治十五(一八八二)年、当時の大手町を含む地区は城内町と呼ばれ、世帯数は三〇三戸。そのうち士族が二六八戸で、平民が三五戸。これらの士族は旧幕臣達だった。
 大正末から昭和初期にかけて結成された旧幕臣関係者の団体「沼津幕臣会」の名簿によると、城内町一帯に住む旧幕臣関係者は十八人。移住などによって旧幕臣の家は減り続け、樋口教授が知る範囲では、現在の沼津市内に残る幕臣の家は数軒だという。
 これからの大手町 城跡が残り整備もされた掛川市などと違い、沼津は城跡の上に町が興り、城の痕跡は、ほとんど残っていない。
 また、街中の寺院の墓地には、沼津藩士や旧幕臣の墓があるが、これらは無縁化した場合、整理されていく。墓地の整理は寺院経営の観点から仕方ない部分もある、とする一方で、樋口教授は墓碑銘なども重要な史料である、と指摘。「沼津の城下町としての名残がどんどん消えようとしている」と危惧する。
 そして、「沼津を離れても沼津のことを思い続ける者として」と前置きをしながら、『住民の顔ぶれが変わっても、歴史への思いは残る。わずかに残る痕跡を、まちづくりに生かしてほしい」と願いを込め講演を終えた。
(沼朝平成23年10月16日号)

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