2011年10月21日金曜日

沼津城から沼津市大手町

 沼津城から沼津市大手町へ
「大手町120年の歩み:平成23年10月10日発行」
 樋口雄彦(国立歴史民俗博物館教授)
 はじめに
 現在の沼津市大手町の名称は、沼津城の大手門に由来するものである。大手町は沼津市の中心部に位置しており,沼津城が存在した時代から、沼津駅や諸官庁・学校・会社が置かれた近代、そして現代にいたるまでの変遷を記述することは、沼津市そのものの歴史をたどることとほぼ同じことになる。従って、それらの概要については『沼津市誌』『沼津市史』をはじめとする諸書に譲ることとして、この小稿では筆者の思い付くままの視点から、このエリアに関する諸々のテーマを自由に取り上げてみたい。

 沼津城のイメージ
 大手町はまさに、江戸時代後期に5万石の水野家・沼津藩の居城として築かれた沼津城があった場所である。それ以前、戦国時代から江戸初期にかけては、より広い範囲に三枚橋城が所在した。三枚橋城の時代.すなわち武田氏や大久保氏が支配した時代に、果たしてどれほどの城下町が形成されたのか否か、よくわからない。
ところで、良い機会なので、地元沼津で初めて公開する資料として、三重県の亀山市歴史博物館が所蔵する三枚橋城絵図4種を35ページに掲載しておきたい。これらは、亀山藩(藩主石川氏)の藩士天野家に伝来したもので、軍学を学んだ同家の人が描いた、全国の城の縄張り図の中に含まれるものである。4種とも従来から知られている、『駿国雑誌附図第二巻』(阿部正信編、吉見書店、1912年刊)掲載の「沼津古城の図」や間宮喜十郎『沼津史料』所収の図面(『沼津市史別編絵図集』掲載)とほぼ同じ構図であり、特に目新しいものではない。とはいえ、図の細部や書き込まれた文字などにも若干の違いが見られるので、後の参考までに紹介する次第である。
 さて、江戸時代の沼津城の姿は江戸時代の浮世絵に描かれているが、それらには写実性はない。一方、城郭の絵図や御殿の間取図、一部建物の立面図、維新期に撮影された写真などはわずかながらも現存し、当時の実相を垣間見せてくれる。明治以降の移り変わりについては、様々な古写真や各年次に陸地測量部その他によって作成された地図などから、城がなくなり市街地化していくようすを視覚的に把握することができる(たとえば石川治夫「地形図に沼津の歴史を見る」『沼津市史だより』第3号などを参照のこと)。そして、城の痕跡がまったく存在しない、現状へと続いてくるのである。
 嘉永6年(1853)9月20日、江戸から遠州中泉代官に赴任する幕臣林鶴梁は、沼津城下を通過した際の印象を、「沼津城、手薄之様子、武風之衰、可咲也」と記している(保田晴男編『林鶴梁日記』第四巻、2003年、日本評論社)。あまりに粗末な城の構えを武風の衰えぶりを示していると嘲笑したのである。
 元治元年(1864)、幕府の御徒目付をつとめていた父の大坂赴任に同行し、沼津に宿泊した14歳の少年小野正作も、「沼津ハ水野家四万石ノ城下テ小サナ城郭ニ三重櫓力大手門ノ脇ニアリ如何ニモ玩具然トシテ見ヘタ」といった記述を後年の回想録に残している(『ある技術家の回想一明治草創期の日本機械工業界と小野正作一』、2005年、日本経済評論社)。沼津城はオモチャのような小さな城だったというのである。
 江川坦庵門下の砲術家として知られた沼津藩士三浦千尋を父にもち、後にキリスト教の牧師となった三浦徹は、屋敷が沼津城の外堀沿い「片端通」にあったため、巡視の目を盗み、よく飯粒を餌にして堀の鮒を釣ったという、少年時代の思い出を書き残している(「続続恥か記」『明治学院史資料集』第12集、1985年)。沼津城のイメージは、厳めしいというよりも、何となくのんびりとした牧歌的なものだった。

 沼津兵学校があった時代
 維新後、沼津藩・水野家は転出し、駿河国全体が静岡藩・徳川家の領地となった。城郭としては決して堅固で大規模なものではなかった沼津城であるが、静岡藩内では駿府城に次ぐ拠点として位置づけられ、沼津兵学校が設置されることとなった。沼津兵学校そのものについて、ここで繰り返し詳述することはしないが、現沼津市大手町こそが、沼津兵学校の所在地であり、また多くの教授・生徒たちの居住地であったことは再確認しておきたい。
歴史上、この地がもっとも輝いていた時代であったと言ってもよいだろう。元沼津市立駿河図書館長の辻真澄氏は、「沼津の町の、あの小路から、この角から、毎日兵学校や附属
小学校に通う教授達や生徒達が、挨拶をかわしながら通り過ぎていったことでありましょう」、「当代一流の人物や、後になって名を成した一流人が(中略)実に華麗な世界を現出していたことになるわけで、何か不思議な想像の世界に遊ぶ思いがします」と表現しているが(『豆本沼津兵学校』、1985年、駿河豆本の会)、まったく同感である。
 沼津城の建物が沼津兵学校の校舎・施設にあてられたことは言うまでもない。二の丸御殿が教室になった。本丸(現在の中央公園)には生徒のための寄宿寮が建設された。二重櫓は兵器庫として使用された。沼津藩時代の鉄砲稽古所が兵学校の射的場に、郡方御役所・御勘定所が静岡藩沼津郡政役所にといった具合に、ほぼそのままの用途が引き継がれた例もある。兵学校当時の配置図は、資業生だった石橋絢彦によって作図され、雑誌『同方会誌』第38号(大正4年刊)に掲載された。
 兵学校が存在した当時、すでに沼津城には少なからぬ改変が加えられていた。明治2年(1869)9月、静岡藩庁は、静岡城(駿府城)を除く領内の城郭はすべて取り壊すとの方針を示した。すなわち、鯱も下ろし、門扉も取り外し、番所も取り払って通行を自由にし、櫓で打ち鳴らす太鼓も廃止し、以後は「何々城」ではなく「何々御役所」と称することとするとの布達を発したのである(『山中庄治日記』、1974年、沼津市立駿河図書館)。明治3年(1870)頃、移住士族の屋敷番号を示すため木版色刷で発行された「沼津略画図」に、城の位置が「元沼津城」と表記されているのは、そのためであろう。天守や御殿など城の本体をすべて撤去するというわけではないので、解体は部分的なものにとどまったのかもしれないし、実際にどの程度まで実行に移されたのかもわからない。
 明治3年10月、静岡藩軍事掛(兵学校の管理部門)の職員であった高橋晋平・外川作蔵・山崎兼吉・芳村錠太郎・和田半次郎の5名は、城の堀を埋め立てて1町歩余の田として開墾したいとの願書を藩に提出し、許可されている。廃藩後の明治6年には高橋・和田・大野寛一の3名にその土地の払い下げが認可され、彼らは小作人を雇い稲作を行った(大野家文書)。こうして少しずつ城郭の形は変わっていったのである。

 沼津兵学校記念碑と駿東小公園計画
 沼津兵学校記念碑の建立が発案されたのは明治26年(1893)8月のことである。「故沼津兵学校紀念碑建設及駿東小公園経営東照宮社殿修築ノ画策」という表題が付された活版の趣意書が印刷・配布された。「当時二雄視セラレ碩学博識ナル俊秀ヲ輩出」した沼津兵学校の栄光を不朽のものとするため記念碑を建てるとともに、その設置場所として駿東小公園を設定し、さらにその園内には東照宮の社殿を新築・移転するという目論見である。いわば、①記念碑の建立、②公園の設置、③神社の新築という複合計画であり、東京上野の「忍岡ノ大公園」(上野公園)を模したプランであった。駿東郡下の住民の憩いの場所となるばかりか、停車場に近いこともあり、「旅客及浴海者」にも集まってもらえることを想定していた。背景として、東海道線の開通、海水浴客の来遊、沼津御用邸の設置、大山巌・西郷従道らの別荘設置などがあり、沼津の町は益々の発展が期待されていた。発起者は西村鐵五郎、土肥高正、中村六三郎、山形敬雄、間宮信行、小松陳盛、江原素六の7名であり、特別賛成員には36名が名前を連ねた。36名中、20名は東京在住者であり、16名が駿東郡居住者だった。在京20名の内訳は、元沼津兵学校教授が西周・赤松則良・大築尚志・伴鉄太郎・田辺太一・渡部温・乙骨太郎乙・黒田久孝・平岡芋作・永持明徳・中根淑・山本淑儀・山田昌邦、元資業生が島田三郎・田口卯吉・矢吹秀一・成瀬隆蔵・石橋絢彦・真野肇・松山温徳。郡内居住16名の内訳は、旧幕臣が万年千秋、宇野三千三、河目俊宗、平民が和田伝太郎、足助喜兵衛、仁王藤八、市河篤造、荻生居十郎、鈴木安平、長倉誠一郎、長倉隆吉、渡辺平左衛門、渡辺治平、植松与右衛門、江藤舒三郎、川口与五郎。万年は元沼津兵学校教授でもあった。
計画では、東照宮に隣接する沼津兵学校練兵場の跡地約500坪、さらにその南北にある畑地約1,000坪を購入するために約2,000円、記念碑建設には約1,000円、東照宮社殿修築には約500円が見積もられていた。そして、翌27年(1894)6月1日の東照公例祭日に合わせ遷宮・開園・建碑3式を同時に行うつもりだった。
 陸軍砲兵少佐井口省吾には26年11月20日依頼状が届き、特別賛成員になることを了承し、翌年2月19日に寄付金5円を第三十五国立銀行沼津支店に払い込んでいる(樋口「井口省吾日記にみる同郷会とその活動」『静岡県近代史研究』第35号、2010年)。なお、特別賛成員は井口を含め36名、その内訳は元教授が13名、元資業生が7名、元附属小学校生徒が1名(井口)、その他旧幕臣が3名、地元平民が12名だった。一般の賛成員(醸金者)は全125名、うち元教授が7名、元資業生が55名、元附属小学校生徒が10名であった(『沼津市明治史料館通信』第28号掲載の一覧表を補正)。
 しかし、この壮大な計画は実現に至らなかったようである。特別賛成員の顔ぶれに見るごとく、沼津・駿東郡の素封家・地主たちのバックアップもあったようであるが、目標とした金額が集まらなかったのであろう、完成したのは記念碑だけであった。明治29年(1896)12月の決算報告によれば、石碑や鉄柵の建設費や謝礼・通信費などを含め、481円余が支出され、29円余が保存費として残されたことがわかる(石橋絢彦「沼津兵学校沿革(七)」『同方会誌』44)。
 記念碑建立については、当時の新聞記事に以下のように紹介されている(『静岡民友新聞』明治27年8月14日付)。
 ●沼津兵学校紀念碑 沼津旧城内の東照宮を修繕し且つ公園を設け旧兵学校の紀念碑を建設せんとて有志者の奔走中なることは既に屡々報道せしが其計画は追々歩を進め篤志者の献金も巨額に達し紀念碑だけは此程竣工し去る七日盛んなる建設式を行ひしが此の碑の高さは十七尺にして篆額は徳川家達公、撰文は中根淑氏、書は大川通久氏にして中々美事なるものなりと尚ほ進んで宮社の修築、公園の開設に着手せん筈なりといふ石碑には明治27年9月と彫られているが、実際には8月に建ったわけである。なお、撰文を担当した中根淑(香亭)は、漢学者仲間の依田学海(元佐倉藩士)に草稿を添削してもらったらしく、依田の日記には「静岡学館旧址の詩文」を訂正し中根に返却したことが記されている(『学海日録』第九巻、明治27年5月19日条)。

 東照宮
 現在の城岡神社は、文政年間に第2代沼津藩主水野忠成の時、沼津城の守護神として奉斎された稲荷社を起源とする。その社は、江戸時代に描かれた沼津城絵図にも描かれている。ただし、江川文庫所蔵の沼津城絵図(整理番号15-2-2、描かれた時期不明)には、「稲荷」が3箇所(外郭・外郭内小廓・三ノ丸)、「天神」が1箇所(三ノ丸)、「山ノ神」が1箇所(外郭内小廓)に文字が記されており、もともと城内には複数の社が祀られていたことがわかる。
 廃藩後の明治6年(1873)12月、廃城となった沼津城の建物がバラバラにされ、民間に払い下げされた際の入札物件の一つとして、「外郭稲荷社 但石灯籠共」とあるので(『沼津市史史料編近代1』)、静岡藩・沼津兵学校の時代には東照宮ではなく、まだ「稲荷社」だったことがうかがえる。ただし、この時誰かが稲荷社を落札し、持ち去ってしまったというわけではないようだ。神社だけは残ったのである。
 沼津移住の旧幕臣たちがこの稲荷社に徳川家康を合祀し、東照宮としたのは明治7年(1874)のことだったとされる(『大手町百年の歩み』)。駿府の宝台院に秘蔵されていた、二代将軍が「御入眼」した狩野某が描いた徳川家康像を譲り受け御神体としたともいわれる(石橋「沼津兵学校沿革(七)」)。沼津兵学校附属小学校の教授をつとめた永井直方の日記には、「東照宮様臨時御祭礼二付、金弐朱奉納」(明治7年2月17日)、「東照宮様江奉納御幕代割合金壱分三百十七文」(同年4月13日条)といった記載があるが(樋口「沼津兵学校附属小学校教授永井直方の日記」『沼津市博物館紀要』23、1999年)、鎮座当初のことであろうか。同じ日記には、「六月一日二日東照宮御祭礼二付休業」(明治9年)、「寅六月一日東照宮御祭礼二付休業」(明治11年)といった記述もある(「沼津兵学校附属小学校教授永井直方の日記その二」『沼津市博物館紀要』26、2002年)。また、奉納撃剣会などが賑やかに行われたようであり、東照宮の存在が地域へ定着していくようすがうかがえる。それは以下のように新聞に報道されている。少し長いが全文引用しておく。
 ○去る廿八日ハ当地城内町東照宮の臨時祭に付土肥高正三浦元由の二氏が願ひ人にて奉納せし野試合の景況を記さんに試合の場所ハ同町の中学校脇を用もちひ四方は増を結ひ繞らし入口にハ撃剣試合場と大書したる標札を掲げ東西の溜りにハ五色の幕を張り廻し紅白の旗ハ風に飜へりいと勇ましくぞ見へたりける出会人ハ同町撃剣場の取締世話かたを始めとして其他三島駅及び当市中よりも数人の飛入あり其姓名ハ大沢保守、室伏喜三郎、三浦元由、福井駒次郎、松村緑太郎、吉成清吉、中村直吉、中野矢太郎、川口金之助、吉田菊次郎、藤田鐵造、青木升三、本多徳磨、近藤周舊、本多鑑次郎、若山健正、佐藤徳右衛門、鈴木五郎太、南條近信、関口敬恭、秋元頼門、小野一信、八木岡鶴次郎、小浜則隆、黒田直與、建部伴之助、前田信利、周邦有、島田忠義、小松賢一郎、西島直治、三須東一、土肥高正、松村角次郎等にて又警察監獄両署よりハ阪本貞三、北島吉太郎、伊藤正邦、天野美保、飯田清綱、水戸部弥太郎、尾瀬田弥三郎、武井正次、今井重敏、藤岡磯吉、望月長秀、梶田義勝、松崎孝正、栗原宗継、鈴木高明、浅井達也の数氏にて都合五十名なり扠正面の桟敷には江坂警部補窪田郡長も臨場見物せられしかば午後より陸続見物人が出かけ中々の熱閙にて試合の初まるを今や遅しと待うちに三時三十分頃前の数氏は各鬮引にて源平の二組に分れ東西の溜りに控へたりかゝりしほどに打鳴す山家流の陣太鼓は螺貝の音ともろともにトウ~として響きわたり一番二番三番の相図にしたがひ結束おしはやくも打出すかゝり太鼓にいさみにいさんで両陣より操いだしたる壮士等が間隔わずかになりしころ検見人の指揮につれ雙方ともに討出す竹刀と竹刀は一上一下隙を窺ふ虚々実々追つ返しつ入乱れ霎時勝負を争ふうち赤旗方が敗北せしかば白旗かたは一斉に凱歌唱へて引上たり暫らくあつて又第二回の試合を初めしが今度も赤の敗北にて白の勝となり第三回目は引分の勝負なし之にて野試合は畢り夫より一人宛の勝負となり十五回の撃合にて最初十一回は一本勝負のち四回ハ三本勝負なり此うち最も見物なりし立合ハ三浦元由氏と藤田鉄造氏の手合せ及ひ藤田氏と坂本貞三氏の試合にて何れも多年練磨の業術顕れたり又松村緑太郎氏は未だ十三年何ケ月の小童なれど一本勝負の時続けて二人に迄勝を得しはなか~のお手柄なりし当日郡役所警察署よりハ酒井に赤飯を出会人一同へ贈られ一時見物人は頗る雑沓して殆んと立錐の地なかりし程にて之れが為め飛んた災難を請けしハ中学校寄宿所の賄方が丹精して作り置たし畑葱一枚を滅茶~に踏荒されしは実に気の毒千万又夜に入て東照宮の社頭には例の中村小蝶の手踊り奉納あり諸商人も出余ほど賑かでありました(『沼津新聞』明治15年10月1日付) なお、明治4年(1871)の太政官布告によって制定された社格制度では、郷社が氏子調の単位となったが、静岡県第一大区七小区(沼津城内町・本町・上土町・三枚橋町)の郷社は日枝神社だった。そのため、明治9年(1876)6月調査の「日枝神社氏子帳」(日枝神社所蔵)には、300戸以上の士族の氏名・番地・家族人数が記載されている。旧幕臣にとってみれば、東照宮こそが最も親近感を抱ける神社だったはずであるが、沼津東照宮はまだ誕生したばかりの小さな社にすぎなかったのである。
 ところで、江戸時代からあった久能山東照宮は別格として、静岡県内には維新後になってから新設された東照宮が沼津以外の土地にもある。各地に移住した旧幕臣たちが、幕府の開祖たる「東照公」(家康)を崇拝すべく勧請したのである。たとえば、遠州牧之原では、土着した旧幕臣らが明治10年(1877)9月に東照宮を建立し、維新後江戸城内の紅葉山から久能山に遷座されていた6尺の徳川家康立像を納めている(大草省吾・塚本昭一『牧之原と最後の幕臣大草高重』、2000年)。沼津の近くでは駿東郡元長窪村(現長泉町)の事例があげられる。同村に移住した旧幕臣は、当初は陸軍生育方、後に沼津勤番組の一部に編成された。町場から離れた山深い土地に長屋を建設し住まざるを得ない立場となった100世帯ほどの集団は、明治3年(1870)4月17日に東照宮「遥拝所」を設け、結集の核とした。沼津の東照宮が城岡神社に改称したのは明治36年(1903)のことだった。「お稲荷さん」(稲荷社)と「権現さん」(東照宮)という二つの呼び名があるのは不都合とされ、新名称に統一しようということだったらしい。

 歴代の住民たち
 戦国時代には甲斐の武田勝頼がこの地に三枚橋城を築いた。その後、松平康親、中村一栄らが城主となった。当然、城将・城主とその家来たちがここに住んでいたことになる。江戸初期には大久保忠佐が2万石の藩主として入ったので、やはりその家臣たちが居住したはずである。その後、三枚橋城は廃城となり、城跡は田畑と化した。一方、隣接する沼津宿は東海道の宿場町として発展し、近世を通じて商人・職人たちが住む市街地を形成した。安永6年(1777)、水野忠友がこの地に城地を与えられ、沼津藩が成立した。かつての三枚橋城趾の上に新たな沼津城が築かれ、その周りには武士たちが住む屋敷や長屋が建設された。沼津藩が上総国菊間へ転出する直前の慶応4年(1868)7月時点、沼津城下には「侍小屋」105軒、「惣長屋」56棟(385戸)があり、男1,181人、女1,188人、計2,369人が居住していたという(『沼津市誌』上巻)。
維新後の徳川家の転入により、沼津城下にあった武家屋敷の住人は、それまでの沼津藩士(水野家家臣)から静岡藩士(旧幕臣)へと入れ替わった。沼津藩時代の沼津城下の住民の氏名は、文久3年(1863)10月に栗原與助有功が作図した「駿河国駿東郡沼津御城地壱分一間積絵図」に記されている。静岡藩時代の住民は、明治6年(1873)頃作図の「沼津城内原図」(沼津市明治史料館所蔵)に記入されている。両者を比較すれば、各家屋の住民の移り変わりを知ることができる。ただし、問の10年間にも居住者に異動があったはずである。具体例を出せば、沼津兵学校頭取西周が住んだ片端十九番小呂は、以前は沼津藩士森源吾が住んでいた家である。しかし、西は明治3年(1870)に上京したため、その後居住者が変わったらしく、明治6年頃の絵図には160番という番号を付された上、区画が二分割され、加藤元吉・千田泰根の名が記されている。
 もちろん膨大な数の移住者によって引き起こされた住宅難はよく知られたところであり、沼津城下の屋敷・長屋に入れた者は幸運であり、多くは町内の商家や郊外の農家・寺社などに間借りをせざるを得なかった。また、沼津城内に住んだ者であっても、「追手内元見張番所」を宿所とした兵学校資業生野沢房迪のごとく(樋口「沼津兵学校関係人物履歴集成その三」『沼津市博物館紀要』30)、本来は住居スペースではない建物に入居した例もあったのである。静岡藩は明治2年10月に布達し、大参事以下の役職者にはその地位に相当する敷地・建坪の役宅をあてがう方針を示した(『久能山叢書第五編』)。沼津兵学校在職者の場合、頭取は敷地300坪・建坪30坪・畳数40畳、一等~二等教授方は250坪・25坪・30畳、三等教授方・同並は200坪・20坪・23畳、教授方手伝は長屋建坪10坪・10畳、などと定められたが(東京大学史料編纂所所蔵「幕臣井上家控十三」)、これはあくまで基準であり、実際に条件を満たした住宅を全員に支給するのは難しかったと思われる。
 明治4年(1871)廃藩置県が断行され、封建的な身分制度も解消されていった。武士だけが集住したエリアだった沼津城下も、やがて少しずつ変貌していく。拠り所としていた藩を失った旧幕臣たちは、郷里である東京をはじめ、職を求めて各地へ散って行った。逆に平民が新住民として参入してくることとなった。
 明治12年(1879)に施行された郡区町村編制法により、行政区画の上で沼津は城内町・本町・上土町・三枚橋町の4町とされた。城内町が、かつての沼津城と武家屋敷地であることは言うまでもない。明治15年(1882)時点で4町の住民は以下のような構成であった(『沼津新聞』明治15年3月13日付)。他の3町とは違い、依然として城内町は「士族の町」であったことがわかる。
 城内町 戸数303戸(うち士族268戸、平民35戸) 人口3,461人 寄留39人
 本町 戸数967戸(うち士族23戸、平民899戸、明家45戸) 人口5,378人 寄留182人
 上土町 戸数270戸 人口1,211人 寄留180人
 三枚橋町 戸数177戸 人口913人
 各町には戸長という首長が置かれ、町会議員が選出されたが、明治15年時点の城内町会議員は、宮内盛重、南條近信、大草善久、永峯就正、木田保次、中村武、西村鉄五郎、松井節義、近藤宗一・、土肥高正、岩佐勝、関口孝恭、松下鵠次郎、小山義範、三浦元由、西岡洗、青山利貞、竹内正斎、松沢知通の19名だった(『沼津新聞』15年12月16日付)。その名前からして全員が士族であったことが明らかである。もちろん戸長の職も、木村亮・柏木義近・飯田弘など、歴代を士族がつとめている。
 明治20年(1887)頃のようすを描いた「沼津北半之図」(原品大野家資料、『絵図が語る沼津の歩み』および『沼津市史別編絵図集』に写真収録)を見ると、沼津城址は一部の堀や土塁が残る一方、埋め立てられ田地に変わった堀もあり、新設された沼津駅からは南へと道路が貫通している。土地の所有者もかなり変わり、旧幕臣以外の地元有力者の名前も見受けられ、また郡役所・高等小学校・測候所・電信局・裁判所・監獄署・キリスト教会などが立ち並んでいた。同図には、渡部温・天野貞省・平岡芋作・榎本長裕・名和謙次・杉田玄端・高松寛剛・吉村幹・横地重直・窪田勝弘ら、沼津兵学校教授・生徒だった者の名前が少なからず残るが、彼らの多くは単に土地を所有しているだけで、実際には居住していなかったものと推測される。
 旧幕臣は少しずつ減っていく傾向にあったが、中には東京で仕事を続けながら本籍は沼津に置き、屋敷を維持したままの者もいた。中央で成功を収めた者が沼津に立派な邸宅を建てる場合もあったようで、沼津兵学校測量方から東京商船学校長となった中村六三郎は、明治20年代に沼津の「城内旧二之丸」に洋館を建設した。その偉容は、銅版画の鳥瞰図として印刷され『日本博覧図』に収録されているほか、写真も残されており(『沼津市明治史料館通信』第19号に掲載)、周辺には旧沼津城の堀跡らしきものも写っており、開発が進みながらもいまだ旧観を残していたことがわかる。
 国会開設の年、明治23年(1890)6月17日時点での衆議院議員選挙人名簿では、沼津町で全59名の選挙人がおり、うち旧幕臣の士族らしき者は西安・樋田豊治・横川景山・中村武・間宮梅翁・万年千秋・小松陳盛・秋鹿見山の8名のみだった(日吉宗雄「選挙制度の充実過程 沼津市域内選挙人名簿の今昔」『沼津史談』第33号)。まだ当時、沼津居住士族はそれほど減ってはいなかったと思われるが、多くの者は資産が乏しく選挙権を持っていなかったのだろう。
 大正4年(1915)9月1日発行の『駿東郡県会議員名簿選挙有権者名簿』(相馬弥六編輯・発行)には、沼津町は本町・上土町・城内・三枚橋町に区分され、そのうち城内には151名の氏名が掲載されている。池谷忠道・飯田耕一郎・西村直温・西安・宇野秀吉・山中為成・松平勝種・小松賢一郎・秋鹿見橘など、まだ移住士族の氏名も見受けられる。ちなみに小松は元沼津兵学校附属小学校教授の生き残りである。しかし、他の多くは旧幕臣ではない新住民ではないかと思われる。仁王藤八・依田治作・間宮徹太郎ら沼津町内の別地域から移り住んだ地元有力者、名取栄一・室賀録郎・佐々木次郎三郎・鈴木幹・芹沢多根ら他県・他村から移り住んだ実業家・医師などである。すでに沼津城内町は「旧幕臣の町」とは言えなくなっていた。大正末から昭和12年(1937)以前に作成されたと思われる『沼津幕臣会規約並会員名簿』(活版)によれば、全会員54名のうち、8名が沼津市城内町字添地町、7名が沼津市城内町字西條町、3名が沼津市追手町となっている。沼津幕臣会は後に沼津葵会と改称したと思われ、昭和14年(1939)開催の沼津兵学校創立七十周年記念会の主催団体のひとつになった。昭和15年(1940)4月の「沼津葵会々員名簿」(謄写版)には、全92名の会員が掲載されており、うち城内添地が8名、城内西条が5名、大手町が3名である。
 沼津市が謄写版で作製した昭和19年(1944)度の「町内会役員名簿」によれば、大手町は町内会長小栗為助以下、副会長(庶務部長・経済部長兼)水口伝之助、健民部長板垣明治、指導訓練外川武重、軍事協力鈴木肇郎、青少年部長鈴木素介、防衛部長鈴木平、納税部長金子賢二、会計部長大村松江、水道婦人部長高村勇となっていた。また町内は一から二十までの組に分かれ、それぞれの組長は板垣明治、大橋規一、関根茂、杉崎九三、海野清、芦川勝郎、鈴木平、真田治男、松岡勇三、深沢房次郎、水口伝之助、佐藤芳太郎、久米義雄、羽野義雄、平井光雄、向後昇太郎、植松信太郎、山崎秀雄、加藤時輔、吉邨勇という顔ぶれだった。たぶん、この中には旧幕臣の子孫はいない。
 そして戦後。住民の異動、町の変貌はさらに激しくなった。そこに住む人も含め、城下町沼津の面影は完全に消えていくことになる。

 おわりに
 一度失われた歴史的遺産を復元することは難しい。沼津城は跡形もなく消滅し、その場所にあった沼津兵学校の記念碑すら本来のものは撤去された。現在立つ沼津兵学校記念碑は1991年建立の2代目であり、初代の石碑は我入道の旧文化財センター敷地内に保管され、人目に触れることもなく横たわったままである。県内を見まわすと、明治初年の廃城により沼津と同じ境遇に陥ったはずの浜松・掛川・横須賀には現在も城跡が少なからず残り、天守閣が復元された場合もあり、城は町のシンボルとなっている。沼津は寂しい限りであるが、今さら市街地を他へ動かし、地中から堀や石垣を掘り返すわけにはいかない。
 町は刻一刻と変化していくものである。変化が乏しかった近世以前と近代とは大きな違いがあった。まして、経済状況などが直撃を与える現代、市街地・商業地の変化には急激なものがある。大火や戦災による被害は外から加えられた物理的な力によってもたらされた変化であったが、本来はそこに住む人間、すなわち内側から生まれる活力が町を変化させていくものである。今後はどのような変貌を遂げるのだろうか。歴史や文化を上手く活かしながらの変化であってほしいと願う。

 樋ロ雄彦(ひぐちたけひご)先生略歴
 1961年熱海市生まれ
 1984年から沼津市明治史料館学芸員
 2001年から国立歴史民俗博物館助教授
 2003年から総合研究大学院大学助教授併任
 2007年大阪大学より博士(文学)の学位を授与
 2011年から国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学教授
 著書に、『旧幕臣の明治維新沼津兵学校とその群像』(2005年、吉川弘文館)、『沼津兵学校の研究』(2007年、吉川弘文館)、『静岡学問所』(2010年、静岡新聞社)、『海軍諜報員になった旧幕臣一海軍少将安原金次自伝一』(2011年、芙蓉書房出版)など。共編・共著に、『沼津市史』、『韮山町史』、『清水町史』、『金谷町史』など。

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