2023年5月8日月曜日

沼津 山王社(ぬまづ さんわうのやしろ)(東街便覧図略)

 



 沼津 山王社(ぬまづ さんわうのやしろ)

国花(こくか)萬葉記に。沼津大明神浅間惣社山王権現と有。

前に誌せし車返(くろまがえし)の里は此辺なりとぞ。今は三枚橋町(さんまいばし)といへり。

 当社に富士の牧狩に用ひられたる大釜とてあり。むかしは二口有しを、盗人取て行んとせしが、重かりければ辺り近き川中になげ捨て去ぬ。

今の釜ケ渕と云是なり。此社の前なる大鳥居に建久二年と誌せし板を立添、此板の下の方損失せしにや。亦立石ありて石面に富士山の形を刻めり。是は彼大釜を往来の旅人に見すへき案内の為となせり。

 

『 山王神社は、三枚橋町と日吉村の境にあって御朱印高五拾石であった。安元(一一七五)の昔、叡山の衆徒が日吉神社の神輿(みこし)をふって強訴をした後、山王宮の崇りがあったので、二条関白師通公の領地、駿河・遠江の二所に神社を勧講することを誓った。それにもとづき当社は御建立といい、大岡の庄拾四ケ村の惣鎮守である。また、同社の釜殿、九尺四面、此釜建久年中源頼朝公御狩の時の釜と云伝、と『駿河記』に見える。

 図は山王社の大鳥居である。左側に建久四年(一一九三)と見えるが、詞書では二年である。鳥居の奥に朱塗り建物が見えるのが社殿であろう。右端の建物が釜殿で、中に釜が見える。その左の石碑には、釜の由来が刻してあったらしい。碑の向こうで婦人に抱かれた幼児に、手前の子供がイナイイナイバーをしているようである。』(東街便覧図略)


状 「仁」 送  沼津市魚町 合名會杜 「仁 」 竹屋荒物商店 電話二七八番

 






状  送

昭和 年 月 日

合計  個

主 受 荷

右之通積送候條貴着御査収願上候也

殿行

扱荷 賃運

 主荷出

(小粒洗濯石鹸ビーズ 花王石鹸・花王エキセリン 花王シヤンプ・ライオン石鹸)代理店

( 亀乃子束子 ガマハイトリ紙)特約店

(荒物 難貨 上敷蓙 簾類一式) 商 卸

沼津市魚町

合名會杜


竹屋荒物商店

電話二七八番


原駅を過て今沢といふに椿林(つばきばやし)あり 「椿明神の社」東海道の実写絵図に文学作品を加えながら解説した新しい歴史資料

 



 椿林(つばきばやし)

 原駅を過て今沢といふに椿林(つばきばやし)あり。又小諏訪(こずわ)と西間門(にしまかど)村の間に椿の明神と云社有。椿を神木とする事吉野の桜の如しとかや。街道の左右に数株の椿枝をまじへたるさま、花紅葉は世に類いも多けれど、それには異りて殊珍らしき詠となれり。

且此所は草鞋(わらんず)、馬沓(くつ)を作り家々の垣あるいは門口にかけ、或は草鞋(わらんず)を一足つゝ板にすへて眼篭(めかご)の伏たる上に載、門口に出せり。是は和らかにしてこたへよきを名物とする由。亦原の駅の出はなれより、沼津辺までの村里は、家々の棟(むれ)に紫はつ(いちはつ)或は鳶尾(えんび)草の類ひを植て屋ねのおさへとす。惣て此辺の垣根は皆竹にてあみたるにいろゝの形を作れり菱或は石たゝみなと、あじろのことくなるもあり。其細工実に奇術と云へし。此辺にうなぎ嶋が原と云所あり。東海道名所記に云。うなぎ嶋が原猟師(れうし)おおき所なり。うなきの焼売り、芋(いも)餅あり。中略。都方にては、いとけなき子どもの数多集りて帯にとりつきて長く并びたるせなかの上を、一人のぼりて、匍偪(はい)ありくをうなぎの瀬のぼりとづけて、たわふれとす。楽(らく)阿弥思出て、

『 原宿の次は今沢、大諏訪、小諏訪、西間門村と続く。その村々では椿林が屋敷森のようになっていた。それは元禄三年(一六九〇)刊行の『延絵図』にも見えているので、少なくとも近世初期以前からのものと考えられる。

 図は小諏訪と西間門の村境付近の街道と考えられ、先方が沼津である。街道の左手先方に「椿明神の社」とある辺りに、詞書に記されている社がある。街道の両側の家々は周囲を椿林に囲まれて華やかである。また、家々が竹垣で囲まれているが、その編み方はそれぞれ独特で美しかった。詞書で、それは奇術であると記している。また、右手前の家の前には目籠(めかご)の上に板を置き、その上に草鞋(わらんじ)を並べて売っている。それは「和らかにしてこたへよきを名物とする」と記している。

左側では、荷物一駄をつけた本馬を曵く馬方が、見事な椿を指して愛(め)でている。中央の駕籠かきはひとり空籠をかついで家路についている。『駿河記』によると、今沢村の三島明神社を俗に椿明神と称す。此辺椿数多くあるを以て号しけるなり、とある。しかし『延絵図』には見られない。何れが正しいのか今の所わからないが、図の雰囲気から考え、西間門の図と判断した。』(東街便覧図略)


2023年5月7日日曜日

千本松原

 



 千本松原

 沼津駅の入口右の方あり。名所にして平維盛の嫡子六代御前の旧跡なり。吾嬬路記に云。千本松原、南の方海つらに有。元いなさ寺と云精舎ありける地也とそ。今も観音堂有。昔頼朝卿平家追討の後、小松殿嫡孫六代、此松原にて切れんとせしを、文覚上人頼朝に乞請て助し所也。ちもとの松原とて名所也。六代はそのご、又逆心有て鎌倉多古江河の東にて誅せられたり。其所に塚有と云。

 東鑑巻之第五文治元年十二月之条曰。十七日上略。三位中将惟盛卿嫡男。字六代。今レ乗レ輿被レ向ニ野地一之処。神護寺文学上人称レ有ニ師弟眤。申請北条殿云。須レ啓ニ子細於鎌倉。待。其左右之程。可レ被ニ宥置。ト云又曰廿四日癸酉文学上人弟子某。為ニ上人飛脚参申云。如此小生者。縦錐レ被ニ赦置有ニ何事哉。中略。彼者為ニ平将軍正統雖少年争無ニ成人之期哉。尤難レ測ニ其心。但上人申状又以非レ可ニ黙止。進退谷之由被レ仰。云。東行筆記に。長門本、平家物語を引て。正治元年二月文覚上人の猪熊の宿所へ押寄せて六代御前を召取関東へ下し、駿河の国の住人岡部三郎太夫好康承りて、千本の松原にて斬りてけり。十二歳にて北条四郎時政の手にかゞりて、爰にて斬れ給ふへき人の、今年廿六迄生たまひける事は長谷の観音の御利生なり、終に駿河国千本の松原にて切れ給ふ事も、先世の宿也とあわれなりし事ともなりと見ゆ。東路塩土伝に云。松原の中に観音堂有。この像南海より出しとや、林中に老松一株有、六代松と云と誌せり。海道記に云。

千本の松原と云所有。老のまなこは極浦の浪(なみ)にしほれ。朧なる耳(ママ)は長松の風にはらふ。晴の天の雨に翠蓋の笠なれども袖をたくらず。砂の浜の水には白花ちれとも風をうらみず行々跡を帰りみれば、前途いよゝゆかし。

 車返里旧跡(くるまがへしのさとのきゅうせき)

 駿州名勝志に云。今の沼津の駅三枚橋町なり。東鑑に駿河国大岡牧及車返牧御所なと云る、皆ここ也と云。海道記、東関記行等に是を戴て詠吟もありと云ども、沼津の駅の図を略せし故、伝説等をも愛にもらしぬ。

 

{ 『駿河記』に「千本公林、松林数享保二年改五千八百七十五本。長五百八拾八間、幅七間半、官道より、凡三町。往古より名高き所にて、千本の松原と云。意は原駅の辺より沼津の浜方面の松原の惣称なりしにや。今は沼津の浜方の松原を云也。」とある。『延絵図』にも沼津から原辺りの海岸に千本松原、千本御林、新御林と記されている。

 図は東間門村あたりの街道で、先方が東方である。街道沿いの水田の向こうに見える松林が千本松原で、図の中央に竹林を柵で囲み、左手に門らしき物が見える所が妙伝寺、その向こうの松林が「六代御前旧林」で、詞書に見られる六代(平維盛の子)が処刑され、首級を埋められたとされている。なお、詞書に見られる「車返里旧跡」は沼津宿三枚橋町である。本図とは直接関係はない。(東街便覧図略)


2023年5月6日土曜日

【PV】Heda, Numazu City -沼津市戸田-

原駅 夕日富士図 (東街便覧図略)

 



 原騨(はらのえき)

 駿州名所志に云。今の原駅、即浮島ケ原也。と。名所方角抄に。

浮島ケ原は富士の南麓なる。仍富士はふせこのなりに見へたり。と云。狗𤡕集上古誹諧に。煙となりてにほふたき物、と云。前にてそねすかた富士とふせことひとつにてとな口しの発句等も見ゆ。関東海道記に。宗紙法師、たち花といふたきものを、馬のはなむけにをくり侍るとて読てつかはしける。

『 この「原」は前図説明の「浮島原」の原の意味である。ここは、鎌倉時代に箱根路が足柄道に代わって発達したのにともない、距離的に短い浦方道が発達し、そこに原の中宿が形成された。それは当時の紀行文等にも見られる事は詞書に見る通りである。近世でも宿駅制度の制定と同時に宿駅に指定されたと考えられている。この宿は街道に沿った典型的な街村の宿で、宿内の往還は二四町四二間であったが、その間に枡形などの障害物の無いのが特徴であった。

 図はその原宿の夕方の街道風景である。遠方の富士山には夕日が当たって朱(あか)く染まり、手前の愛鷹山は日陰になっている。街道は先方が沼津。人影も少なく、街道沿いの茶店では店じまいをしている。街道沿いの家々では、竹を二つに割って、それを叩いて平らにして編んだ竹垣で、風と砂を防いでいる。屋根の棟の草(いちはす)も枯れて黄金色になっている。どうやら猿猴庵の「行はこの宿で泊まったらしい。』(東街便覧図略)