2023年12月8日金曜日

大沼津市 (「わがふるさと静岡県」昭和30年6月15日発行)


 大沼津市

 町の東の方にある香貫山(かぬきやま)のドライブ道路を建っていくと、沼津市を一望に眺めることができます。

 眼下に見えるまがりくねった川が狩野川(かのがわ)で伊豆の天城山から流れでて田方平野を通り途中黄瀬川(きせがわ)とあわさって駿河湾に、そそいでいます。その長さは約四十五キロで川口には港があり、伊豆その他の交通の要所となっています。夏祭りの花火も、ここで行われますし、沼津の景色を一層美しくしてくれています。この川も以前は水害があったのですが、川幅を拡げ、堤防をよくしてから、それもなくなりました。川にかかっている四っの橋は鷹下から永代橋、御成橋、三國橋、黒瀬橋で川の両側を結ぶ大切な交通路になっています。川の向う岸は、ぎっしりと家がつまっていて、港の方から駅の方へ広い帯をつくっています。この家のあるところは、町の中心で、にぎやかなアーケード街もあります。アーケード街というのは、高いビルディングを横にしたようなもので、多くの店を全部コンクリートでつなぎあわせ、横につづくデパートを形づくっているもので、町の美観、防火なども考えられて造られたものです。

 港からずっと西の方に続いている松原が千本松原で遠く原町の方へかすんでいます。駿河湾の波が打ちよせ白い線を浜づたいにひいている景色は何ともいえません。夏の千本浜のにぎわいは、また大変なものです。

 この松は、海から吹きつける潮風をさえぎり、農作物の成長に大切なはたらきをしていきす。また、この附近一帯を゜千本公園といい、図書館をはじめ、水族館、遊園地と市民のいいこいの場所ともなっています。この松の林も、今から三百七十年余前、甲州の武田氏が相模の北条氏を攻めるため、全部切りとってしまいました。そのため、沼津に住んでいた人々は、潮風が吹きつけ、作物はできずどうすることもできませんでした。このようすを、ごらんになった増与上人(長円)という人が、千本の松笛を手にし、よそから土をはこんで一本一本、真剣に植えまわりました。その後この松は、年を追うごとに成長し、今の千本松原のもとになったのです。松原をすぎると青々とした田畑が広がっています。海岸から西の方に眼をうつしていくと、束から西に日の光をうけて光って見えるのは東海道線です。線路づたいに見ていくと駅があります。富士山の裾野と箱根山との間をぬって南に下ってくる御殿場線の蒸気機関車も見えてきます。伊豆の門戸として大切な役割を果している沼津港から、薪炭、みかん、魚類等をつんだ臨港線(蛇松線)の貨物も駅にむかっていそいでいます。みかんとお茶の色でスマートな湘南電車も平均約二時問の割合で東京との間を走っています。デパートのある駅前からは各会社のバスが沼津駅の四方八方にのび、遠く下田、箱根、静問、御殿場方面まで走っています。

 駅の北側は最近工場が建てられ、大きな煙突から煙をはいています。このため駅北の町は一日一軒ぐらいの割合で、家がふえ工業地区を作りつつあります。工場数で見ますと、食料品製造が半分以上で、木材木製・機械器具製造の工場がそれにつづいています。生産額でみますと、紡績業、食料品、機械器具の順になっています。

 建物のきれ目から広い田畑がつづき、愛鷹山につながり、その背に富士山がそびえています。富士山、愛鷹山は北から吹いてくる冷たい風をくいとめてくれますし、駿河湾からくる風は暖かいので、沼津は気候のよいところとして全国に知られています。愛鷹山は古い火山で、山のすそを根方(ねがた)といいます。火山灰の深い層からできていて、さつまいもや、大根、にんじんなどを作るのに適しています。狩野川ぞいに賑をうつすと、電車が走っていますが、これに乗ると三島へいきます。その間に大平村、清水村があります。

 眼を南の方へうつして見ますと、山のすそから、南にかけての一帯が香貫です。この附近は山すそが、いりこんでいて風当りがわりあい少なく、あたたかい上に立派な生垣で守られているので野菜はよく育ちます。五月には、きゆうりが京浜地方にうり出され、トマト、なすなども早くできますが、そのかげには農家の人々の研究と努力がなされていることはいうまでもありません。香貫の耕地をたどって左へ見ていきますと牛臥山(うしぶせやま)があり、その下に我入道(がにゆうどう)の家々がかたまって見えます。この町の漁船の中に無線電信の設備をもって、遠く九州や東北地方の海までいくものもあります。牛臥山のむこうには、御用邸があり、波静かな静浦と伊豆の山々がかすんで見えます。御用邸の附近を島郷(とうごう)といいますが、桃郷と書く人もあるように、浜ぞいの地に明治の中ごろから、桃が作られています。畑がせまいので産額は少ないが品質がよいので有名です。

 静浦附近一帯は、海辺の町といえましよう。太平洋の黒潮は、片浜、静浦、江の浦、西浦の岸に沿って、流れるので暖流に住む、いわし、あじ、うずわ、さば、しらす等がとれます。漁業に徒う人は、つねに船の設備や漁法を工夫し新しい漁場を求めて努力しています。また静浦の山ぞいでは、山の傾斜面を利用して、みかんが作られ西浦、内浦と共に質もよく輸出みかんとして有望です。

 駿河湾の深く入りこんだところを江の浦湾といい江の浦港があります。波も静かで水の深い港で船を修理するドックもありもあります。港内には、かつお、まぐろ等のえさを飼ういけすがあり、長崎、鹿児島、土佐、三重たりの漁船は、このえさを買って伊豆七島、小笠原諸島や遠くインド洋までもでかけます。

  香貫山につらなっている山が徳倉山で富士山のすそのに、つらなっているように見える山が箱根山です。 沼津市はこのようなところにあって、自然にめぐまれ、産業、交通、文化、観光と県東部の中心都市として、日ごとに発達していますが、こうしたかげには、大正二年、同十五年の火災及び昭和二十年の空襲と市街の大半が焦土と化した苦しい災害史もあります。明治二十二年沼津は町となり、さら大正十二年七月一日、隣村楊原村を合わせて沼津市となりました。さらに昭和十九年四月一日には、静浦、大岡、金岡片浜の隣村四ヵ村を合わせて、名実共に発展し、全国にも知られる都市となったのです。

 この四月一日からは、愛鷹村、大平村、内浦村、西浦村も合わさって、人口も十二万九千余人となり大沼津市として発展しようとしています。(静大付属静岡小学校杉山五郎)



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