2023年12月24日日曜日

沼津城跡 (沼津の文化財昭和51年3月31日発行:沼津市教育委員会 小野真一)

 

沼津城跡

 大手町

 沼津城の遺構は、現在ほとんど残っていない。慶長以前の古城と安永以後の新城とがあり、大きな相違かある。新城は、明治20年陸地測量部2万分の1地地形図に、その広さが正確に示されている。沼津駅の南約120㍍の地点から、その南方狩野川端まで380メートル、東西最広部380メートルである。城内は本丸、二の丸、三の丸に区分され、内外の堀、土塁をめぐらしていた。南向の大手門には二層楼がつくられ、本丸の北端に天守台があった。二の丸には西に太鼓門、東に日頭門があり、内堀と外堀の間ある三の丸には南に大手門、に搦手門(角馬出門)、東に喰違門、西に丸馬出門があった。丸馬出門の外側には三日月の丸馬出門があり、三の丸西北に二層楼があった。古城は.新城に比べて規模が大きく、今日の上土町なども城内である。古図によれば三重の堀をめぐらし、本丸、二の丸、三の丸があったが、新城構築の際外堀、三の丸は除去され、二の丸が改造されて新城となった。大手は南面し丸馬出しかあり、川廓、上土あたりは外廓で、東海道は城北にあった。この東海道か城南を通るようになったのは、新城構築以降である。古城は純然たる武田式の築城で、「甲陽軍鑑」「北条五代記」などに武田勝頼が築城したとある。

 慶長6年(1601年)徳川家康の家臣大久保忠佐か城主となったが、忠佐の死後世継がなかたため廢城となった。新城の構築は、その後160年余も経た安永6年(1777年)で、水野忠友が三河から移封されてきたためである明治維新に当たって廢城となり、明冶5年県に競売に付された。(小野真一)




↑明治5年陸軍省城跡絵図沼津城全図(杉山氏蔵)










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