2021年4月28日水曜日

沼津城 浜悠人 (沼朝令和3年4月28日寄稿文)

 


沼津城 浜悠人

 沼津には御城印として興国寺城、長浜城、三枚橋城、沼津城の四城あるが、先に三城については紹介したので、最後の沼津城について記す。

 まずは、天正五年(一五七七)に武田勝頼が築いたと伝えられる三枚橋城も五人の城主と、その間、三十六年の変遷を経て慶長十八年(一六一三)最後の城主大久保忠佐が亡くなり、跡継ぎもなく、翌年、廃城となった。

 徳川家康は天下を統一し、慶長六年、東海道に宿駅伝馬(しゅくえきてんま)制度を敷いた。京都と江戸の間に五十三の宿駅を設置、各宿には三十六匹の伝馬(交通手段としての馬)を常備させた。

 沼津宿は江戸から十二番目の宿駅に当たる。五代将軍徳川綱吉の元禄年間(一六八八ー一七〇四)には沼津宿も三町(三枚橋町、上土町、本町)一宿の宿場となり、山王前から出口(幸町)まで人家が続き、東海道でも有数な宿場町として発展した。

 安永六年(一七七七)、水野出羽守忠友は十代将軍徳川家治から、百七十年余にわたって城のなかった沼津の地を与えられ、新たに沼津城(別称観潮城)を築いた。この沼津新城は平地に築かれた平城で、これをもって沼津藩の始まりとなる。

 忠友は老中田沼意次と親しく、幕閣に重きをなし、後に筆頭老中になった。忠友には男子がなく、娘八重姫の婿になった忠成(ただあきら)が本家の跡を継ぎ、沼津藩の二代藩主となり、文政元年(一八一八)、老中に任命された。

 彼は幕府の財政救済のため貨幣改鋳を行い、文政十一(一八二八)年には倹約令を出し、さらに、十一代将軍家斉には多くの側室があったが、その子女五十六人の養子縁組や降嫁(嫁入り先)の世話をした。文政八年(一八二五)には将軍の命(めい)を受け上洛している。

 それらの功により沼津藩は加増を受けて五万石となり、沼津城を拡張し、侍屋敷二万坪の拝領ともなった。それらの地域が現在は添地と呼ばれている。

 先年、日光東照宮を訪ねた。東照宮は徳川家康の廟所()で、元和二年(一六一六)、家康は七十五歳で没すると静岡の久能山に葬られたが、翌年、天海大僧正が座主を務め、日光山へ改葬された。

 さらに三代将軍家光が大造営を行い、寛永十一年(一六三四)、今見るような華麗な社殿を完成させた。特に陽明門は東照宮のシンボルで極彩色が配され、まばゆいばかりに美しく、一日中見ていても飽きないので「日暮門」と呼ばれている。

 正面階段の左右には大名達から寄進された石燈寵が並び、正面の一番内側の石段脇に銅製の燈寵、左右一基ずつ計二基あった。そこには「駿河国沼津城主出羽守源朝臣水野忠成」と克明に刻まれていた。忠成は沼津藩の領地加増のお礼として、日光東照宮の陽明門に燈寵を寄進していたのである。

 現在、大手町の中央公園にある「沼津城のあゆみ」なる表示板には忠成の肖像と「老中首座、勝手掛として幕府の財政の均衡を回復し、治安の維持や商業統制を行うなど、いわゆる文政の改革の推進者として活躍した」とたたえられている。

 明治維新となり、沼津藩の八代城主水野忠敬(ただのり)は上総国(千葉県)菊間に移封され、代わって十五代将軍徳川慶喜が駿河に入国し沼津城は徳川の兵学校として脚光を浴び、多くの子弟を育んだ。

 明治五年(一八七二)、沼津兵学校も東京に移され、廃藩置県により静岡県の手で、城は細分され入札に付され、全て売却された。その後、明治二十二年(一八八九)、東海道線の開通により沼津駅が開かれ、駅前から上土通りに通ずる道が出来て旧城趾は真っ二つに分断された。

 その後、市街地が発展するに従い、堀は埋められ、土塁は削られ、沼津城祉も完全に市街地に変わっていった。そして今や、僅かに中央公園に、その足跡として十㍍余の石垣を留めるのみである。

 (歌人、下一丁田)

【沼朝令和3428日(水)号 寄稿文】


画像加入加工「沼津城」↓




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