「三枚橋城と城主達」 浜悠人
上土のリバーサイドホテル入り口に「三枚橋城外堀石垣」の表示板と掘り出された石垣が再現されている。
近くに大石がセットされ、「三枚橋城は戦国時代の天正年間に武田勝頼が築いたと伝えられる城郭で…三枚橋城の規模は沼津城よりも大きく、この位置がその南端に当たり、狩野川から西に延びる城郭の外周を巡る外堀が築かれていた。平成六年、その外堀跡が発見され、発掘調査が行われ、この石はその石垣に使用されたもので、この石の位置が外堀のほぼ中心を示しており、この下には今も堀跡が埋もれている」と説明されていた。
ここから駅の方に向かうとアゴラ北の駐車場入り口には「三枚橋城石垣」が再現され、「この石垣はアゴラ沼津の地下から発見された三枚橋城の本丸入口付近の石垣の一部を復元したもの」と表示されていた。
この辺は外堀の掘り土を揚げたので上土と呼ばれる。 三枚橋城の城域は広大で、東の外郭は狢川(むじながわ)を境に狩野川を外堀に見立て、南は上土町と通横町の境を西に進み子持川まで、さらに西側と北側も子持川に沿っていたのではなかろうかと推測する。当時、東西の往還は城の北を通っていた。
三枚橋城は天正五年(一五七七)、武田勝頼の命により家臣高坂源五郎、後に改名した春日信達により後北条に対して築城された実戦的な城で、広い城域には町家を取り込んでいた。
天正八年(一五八〇)、北条と武田は千本松原で戦いを繰り広げた。後年、乗運寺の増誉上人は「一本植えてはなむあみだ二本植えてはなむあみだ」と唱えて松を植え松原を復活させた。海上では千本浜沖で北条の安宅船と武田の小船が海戦を展開した。
天正十年(一五八二)、織田信長、徳川家康の軍は甲斐に攻め入り、武田勝頼は破れ、天目山で自刃した。徳川の家来松井忠次は三枚橋城を攻め城将春日信達と戦いこれを陥落させた。家康は松井忠次を改名させ、松平康親とし三枚橋城を授けた。
ここで新たに、北条、徳川の両軍が黄瀬川、狩野川をはさみ対峙することになった。天正十一年(一五八三)、城主の松平康親が死去。その子康重が禄を継ぎ親子二代して三枚橋城の城主となった。
天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の小田原北条攻めの時は松平康重が三枚橋城の城主であった。家康は長久保城に、秀吉は三枚橋城に入り、全軍進発して一日で山中城を陥れ、小田原に迫った。その後、北条氏は秀吉の軍門に降り、秀吉はここに天下を平定した。
この戦の結果、徳川家は伊豆を含めた関東全域へ移封されて江戸へ移り、駿河は秀吉の一族中村一氏の所領となり、一氏は駿府に住まい、舎弟一栄が三枚橋城の新たな城主となった。
慶長六年(一六〇一)、関ケ原合戦の恩賞として三枚橋城は歴戦の大久保忠佐が拝領した。忠佐は在任中、黄瀬川に牧堰を築き、大岡方面に水を引き入れた。また、忠佐の家来に六尺(駕籠かき)として仕えた山田長政がいた。長政は後年、シャム(タイ)に渡り、シャム国王の傭兵隊長や地方長官にまで出世した。
慶長十八年(一六一三)、忠佐は世継がないまま病没、東間門の妙伝寺に葬られた。現在、一小のグラウンド北側には道喜塚(忠佐の法名)なる墓が建っている。忠佐死後、大久保家は断絶。翌年、本多正純、安藤正次に三枚橋城の破却が命ぜられ、遂に三枚橋城も消え失せることになった。
天正五年に三枚橋城が築城されてから三十六年を経て遂に廃城となり、沼津から城がなくなった。
それから百六十余年を経た安永六年(一七七七)、水野家が沼津藩主となり、三枚橋城の跡地に新たに沼津城が築かれた。沼津城については次の楽しみにしたい。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和3年4月1日(木)号 寄稿文】
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