2020年12月10日木曜日

明治期の交通事情 浜悠人(沼朝令和2年12月10日寄稿文)画像入り加工

 




明治期の交通事情 浜悠人

 明治維新(一八六八年)により江戸時代から明治時代になると、東海道をはじめ諸街道の輸送を担ってきた「伝馬所と助郷」が廃止となり、それまで徒歩のほか駕寵(かご)や馬に頼っていた交通手段も人力車と馬車の登場、そして、その普及によって様相は一変し、往来は、ますます盛んとなった。地方により人力車や乗合馬車はバスや鉄道に代わるまで利用されてきた。 参考までに鉄道の開設状況を年代順に記すとともに、沼津駅の働きも紹介する。

 明治五(一八七二)年、新橋~横浜間、開通。

 明治七年、大阪駅~神戸駅、開通。

 明治十年、大阪駅から京都駅まで延伸。

 明治二十二年、東海道線全線開通(新橋~神戸)

 明治二十二年、沼津停車場開業。



 




明治二十六年、沼津御用邸完成。

 昭和九年、丹那トンネル開通、東海道線が熱海経由となる。


 東海道線は開業当時
、御殿場経由だったので途中の経路には
25%(パーミル)という急勾配があった。車両は、この勾配を越えられる機関車に沼津駅で付け替えを行い、さらに車両数が多い時は補助機関車を列車後部に追加連結する必要があった。ために沼津駅には上り列車は必ず停車していた。

 昭和九年に丹那トンネルが開通すると東海道線は熱海経由となった。


東京、沼津間が電化され上下線とも列車を牽引(けんいん)する電気機関車と蒸気機関車を沼津駅で付け替えることになり、全ての旅客列車、貨物列車が何分間か停車することになった。

 テト馬車これは明治三年に開業した乗合馬車を指し、庶民の乗り物として親しまれた。馬が四輪車を引き、その中に六~十人の乗客が乗れた。

 立場(たてば鱒停留所)も一応あったが、手を挙げれば乗車することができた。手綱を引く別当(馬の口とりをする御者=運転手)は馬車の通過をラッパで知らせた。その音が「テートーテートー」と鳴るから、乗合馬車は通称「テートー馬車」または「テト馬車」と言われた。

 沼津には明治期、馬車の立場が三カ所あり、市道から原町方面に行くものと、上香貫吉田から静浦方面に行くものと、山王前から三島方面に行くものとがあり、いずれも相当に繁盛した。

 乗合馬車・荷馬車を含めて大正十五年には百七十八台あったが、昭和十三年には六十七台と約三分の一に減少。乗合馬車は昭和十年ころには全く見られなくなった。

 ところで先日、テト馬車の遺跡を探し求め、たまたま吉田町の御嶽神社境内で馬車にかかわる碑を発見した。碑文は長年、自然にさらされて剥離し、殆んど読めない状態だった。

 吉田町にある第四地区センターの協力を得て一部分だが次に紹介する。

 馬塚碑


 この碑は明治十六年九月瓦山西のふもとの馬車の停車場に建設した。その時の思いを関係者と相談し残そうと思っていたところ、明治二十二年東海道に汽車が開通したため、忽ち街道は寂しく人の往来が減っていくような状況が招来した。以前に建てた碑も草.むらの中に見えなくなる始末となったので今回このところに移し裏面を使って往.来の人々への案内に提供したいと思っていた。…… 明治三十年七月 三島館世古某記

 終わりにあたり、戦後、東海道も国道一号として道路整備されて車時代に突入した。鉄道も新幹線は沼津通過と、思えば「明治は遠くなりにけり」の言葉が想起されてならない。

 (歌人下一丁田)

【沼朝令和21210日(木)号寄稿文】

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