沼津市史・通史別編・民俗
第一節
宿場町と城下町
沼津の市街地というのは、駿河湾の東部にのぞむとともに、狩野川の下流域にあたるところで、江戸時代の初期から、東海道の宿場町として開かれていた。そのような沼津の町は、箱根山をこえて江戸と結びつき、浮島が原をへて上方ともつながっていただけではなく、根方を過ぎて甲州ともゆきかよい、海路によって西伊豆ともかかわりあっていた。明治二二年にいたって、あらたに鉄道の開通のために、直接に京浜や阪神と結ばれることとなり、それからも引き続いて、ひさしく交通の要衝として、その独自の位置を保ち続けてきた。
江戸時代の沼津の宿場は、一四町すなわち一五〇〇メートルにわたっているが、大きく三枚橋と上土と本町とに分けられながら、全体として市街地の骨格をつくりあげている。東の三島から西の原にむかって、当時の東海道をたどってみると、まず山王前から三枚橋に入り、ついで川廓から上土を過ぎ、さらに通横町から本町を通って、出口で沼津宿から離れるというものであった。
さかのぼって、江戸初期の慶長一八年に、領主の大久保家が絶えて、旧来の三枚橋城がすたれてから、この沼津の町は、ひさしく幕府の直轄領として、代官の支配下におかれていた。江戸後期の安永六年に、それが水野氏の所領と変って、新しい沼津城が建てられることによって、ただ宿場町だけにとどまらないで、しだいに武家屋敷もたち並んで、改めて城下町として整えられたのである。
明治の初年からは、この沼津城にあたる地区が、城内という町域として認められたので、これまでの三町とあわせて、あらたに四大字がおかれることとなった。また、明治の中期には、東海道線の鉄道が通じて、その城内の北側に、沼津の停車場がもうけられ、現在の大手町を中心に、しだいに市街地の形態が整えられていった。さらに、明治の末年からは、旧駿豆鉄道のチンチン電車が、三島広小路と沼津駅前との間を通いはじめたが、この電車の単線の軌道は、三枚橋までほぼ東海道沿いに敷かれており、大手町角から駅前通りにつながっていた。
第二節
町場の構成 町内の組織
いわゆる沼津の三町にあたる、三枚橋と上土と本町とは、旧来の宿場の伝統を受け継ぎながら、近代の都市化の過程をたどることによって、今日のような市街地の中核を形づくるとともに、それぞれの地域ごとの特色をあらわしてきた。実際には、それらの三町に城内を加えた、四つの大字にあたる地域は、それぞれにいくつもの町内に分けられており、さらに細かな組からなりたつものであった。
そのような町内ごとの自治会は、会長などの役員を中心に、さまざまな事業や行事を営んでおり、沼津市の当局との連絡を保ちながら、その地域の住民の結束にも役だってきた。この自治会の組織というのは、祭りの運営などにあずかる、神社の氏子の集団ともかさなっており、また冠婚葬祭などの贈答をおこなう、親密な交際の範囲にもあたるものである。しかしながら、その一つ一つの町内は、かならずしも明確にくぎられるわけではなく、たがいに密接につながりあっており、そのような町内の区分をこえて、何らかの商店街や商店会をつくっているものも少なくない。
先行の文献の中では、『沼津市博物館紀要』の二〇集における、川口和子氏の「沼津の町並みの移り変わり」をはじめ、『沼津朝日新聞』の各年度の新年号における、同氏執筆の記事には、戦前の沼津市の町並について、きわめて精細に示されている。また、沼津市教育委員会の『三枚橋の民俗』、上土町内会の『上土町のあゆみ』、西川菊義氏の『花街本町昔話』などには、沼津の各町の実態について、それぞれ的確にとらえられている。ここでは、それらの文献の記事を参照しながら、改めて実地の調査を進めることによって、第二次大戦前から今日にいたる、それぞれの地域の様相についてまとめておきたい。
三枚橋の各町内
明治年間の三枚橋は、三枚橋町、平町、新田町の三町に分けられており、第二次大戦中の三枚橋は、三枚橋町、横宿、寺脇、山王前、平町の五町からなりたっていた。平成一七年度の地区委員の名簿には、この地域の町内にあたるものとして、第五地区南の連合に属する、三枚橋町、平町一丁目、平町二丁目、山王台、三芳町、山王前、富士見町、伝馬町、シティコープ平町という九自治会があげられている。
大岡地区から沼津地区に入ると、旧東海道の電車道に沿って、山王前と平町と三枚橋町という、三つの町内が連なっていた。その平町の北東部には、氏神の日枝神社が祀られており、俗に山王さんという名で親しまれてきた。その入口の鳥居の脇には、東海道の一里塚が残されており、一本のマキの木が植えられていた。今日でも、この平町から三枚橋町にかけて、電車道の南北の両側には、多くの商店や事務所などがたち並んでいる。かつては、特にこの通りの南側は、問屋町や問屋場などといって、穀物商、肥料商、石炭商、酒造業などを営む、かなり大きな店が集まっていた。それらの店の南側は、そのまま狩野川の河岸につながっており、その河岸に着いた船と、店ごとにもうけた倉との問を行き来して、それぞれさまざまな荷をあげおろしするようにつくられていた。
江戸時代の末期までは、三枚橋町の北側の一画は、俗にゴゼノ町と称するところで、盲目の瞥女(ごぜ)という芸人が集まっていたというが、明治維新によって、まったくそのおもかげは失われてしまった。それでも、電車道の両側と違って、三枚橋町の北方の横宿では、いくらかの小売の商人のほかに、大工、仕事師、瓦屋、石屋、馬力引き、車引きなど、さまざまな分野の職人が住んでおり、浪花節語りなどのような、旅の渡世の芸人もまじっていた。しかも、それらの職種の人々には、兼業で農業を営むものが少なくなかったのである。
港の築造が進められるとともに、南方の狩野川の河口にむかって、第二地区や千本地区の連合に属する、いくつもの新しい町内がつくられていったのである。
城内の各町内
明治年間の城内は、条内、片端、添地、町方、西条の五町に分けられており、第二次大戦中の城内は、大手町、上本通町、町方町、添地町、西条町の五町から成り立っていた。平成一七年度の地区委員の名簿には、第一地区の連合に属する、町方町、西条町、添地町、大手町、上本通町の五自治会があげられるのである。
明治五年に沼津城が廃されてからは、その跡地も荒れたままにおかれていたが、明治二二年に東海道線の沼津駅がもうけられて、駅前通りが上土町と結ばれると、この大手町の一帯には、郡役所や裁判所などのような、いくつもの官庁がたちならんで、その大通の両側には、旅館や飲食店をはじめ、多くの商店などが連なるようになった。
大正二年の大火後には、大手町の西側から町方町にかけて、あらたに本通りという道路がつくられて、ただちに上本町や下本町とも結ばれることとなった。今日では、そのような本通りの両側は、上本通りやアーケード街と称して、それぞれ独自の商店街として知られている。また、大手町や上土の商店街と、それらの二つの商店街との問には、仲見世や新仲見世などのような、いっそう繁華な商店街も連なっている。
第四節
商店街の変遷
旧来の沼津の町は、陸海の交通の要衡にあたっており、江戸時代から明治年間を通じて、いくらかは農業や漁業ともかかわりながら、何よりも商業の取引を中心に、きわめて顕著な発展をとげてきた。明治二三年の統計によると、一八六五戸の戸数に対して、三〇戸の宿屋、八戸の料理店、五六戸の飲食店、一八戸の卸売商、四〇戸の仲買商、三八八戸の小売商などが数えられており、その繁栄の実情をうかがうことができる。そのような沼津の商圏は、ただ市内やその周辺だけにとどまらないで、広く駿河東部の一帯から、伊豆半島のほぼ全域にも及んでいった。さらに、大正から昭和初年にかけて、繊維工業などの軽工業を受け入れており、第二次大戦の時期には、機械工業などの重工業を受け入れている。
そして、終戦から今日までには、ただ商業都市の性格を保つだけてはなく、軽工業と重工業との両面にわたって、あきらかに工業都市の実態をもそなえるようになった。
そのような市街地の発展にともなって、それぞれの商店街の様相も、年代ごとに顕著な変遷をとげてきたと認められる。旧来の東海道にそった、上土の本通りなどは、新しいセンター街としてととのえられながら、むしろ停滞の状態におかれているといえよう。同じような街道筋にあたる、上本町や下本町なども、第二次大戦の終結とともに、まったく繁華街の面目を失っており、かならずしも顕著な特色を示してはいない。それに対して、沼津駅の周辺に開かれた、駅前名店街や大手町商店街などは、大型店の進出などにささえられて、何とか独自の繁栄を保ってきた。それより駅から離れた、上本通りやアーケード名店街などは、これまでに相当の充実をはたしながらも、すでに再開発の必要にせまられている。それよりも、二つの通りの中間にあたる、仲見世の商店街などは、終戦の直後におのずから集まった、露天商の闇市から始まったものであるが、現に随一の繁華街としてにぎわっている。さらに、いわゆる駅北の開発とともに、リコー通りや中央へ通りなどの商店街も、やはり大型店の進出などとあいまって、いっそう新しい発展をとげようとしている。いずれにしても、その市街地の商店街は、明治初年から今日まで、東海道の宿場から始まって、沼津駅の南部の一帯に広がり、駅北の方面にむかってのびてきたといえよう。
商人の伝承
そのような市内の商店街では、しばしば火災や戦災などをこうむって、ほとんど戦前の様相をとどめてはいない。それにもかかわらず、旧来の東海道に沿って、何軒かの老舗の商店が、明治大正から今日まで、その位置や業態をかえながらも、何とか独自の営業を続けており、いくらかは貴重な伝承をもち伝えている。
三枚橋町の商店として、旧東海道の南側には、いくつもの問屋が並んでおり、丸京という石炭の問屋が、もっともよく知られていたが、また丸源という同業の店は、その丸京の番頭をつとめた人が、大正年間に始めたというもので、最近までその営業を続けていた。すぐ裏手の狩野川には、その専用のダシが設けられており、清水から船で石炭などを運んできた。そこで、沼津の周辺の工場に、この石炭をおろすとともに、近隣の蹄鉄屋や鍛冶屋には、おもにコークスを商ったもので、近年には、そのように石炭を使わなくなったので、おもに石油をあつかうようにかわっている。
この街道の北側の裏通りには、糠屋とよばれる店があったが、米のヌカを商うのではなく、材木のオガクズをあつかっていた。沼津や裾野の製材所から、そのようなヌカをもらいうけ、竹籠に入れてかつぎだし、会社や商店や家庭などに、絶好の燃料として送り届けた。昭和の初年までは、おおかたは竹籠にヌカを入れて、馬力やリヤカーなどで運んだものであったが、また麻袋にこれをつめこんで、伊豆から船で届けてもらい、港から馬力で運ぶこともおこなわれたという。今日では、一軒の製材所からいくらかのヌカを分けてもらって、長泉などの農家にこれを送り届けており、もっぱら牛舎の床にこれを敷きつめている。
上土町の商店街では、実際に何軒もの商店が、明治の初年から受け継がれてきたが、その一つの前山履物店は、近年に貸店舗の経営にかわっている。本来は、鹿島屋という回船問屋が、ニビキの商標を用いていたので、そこからのれんを分けてもらって、カクニの商標を用いたものである。街道筋の店頭に並べた、履物や傘などを商っただけではなく、また伊豆の方面にも出かけて、あらかじめ注文をとっておいて、あとから商品を送り届けることもおこなわれたという。
同じ町内の八代眼鏡店も、東側から西側に移ってはいるが、明治の初年から今日まで受け継がれている。その当初には、もっぱら桶屋を営んでおり、明治の中期から、改めて小問物屋にかわって、装身具や小物類とともに、既製品の眼鏡をあつかうようになったが、特に防塵用の眼鏡を売ってもてはやされた。昭和の初年には、眼鏡の専門店として知られており、駿河東部や伊豆方面からも、かなり多くの客を集めていた。
上土通りの東側にあって、通横町の町内に属する、布沢呉服店という老舗は、三島宿の出身の初代が、上本町の布屋に奉公していたのが、江戸末期の安政二年に、そこからのれんを分けてもらったものである。昭和の初年には、数人の大番頭のもとに、何人もの中番頭や小僧などをおいて、かなり盛大な商売を営んでいた。東京や京都などの問屋から、さまざまな好みの品を仕入れて、本町の花街をはじめ、市中の得意の客に売りさばいていたが、また伊豆の方面などに出むいて、広い範囲の注文をとりあるくこともおこなわれた。
上本町の古安という店は、大通りの角地にあって、明治の初年から、天然の氷をきって売っていたが、同二〇年の前後から、食肉店と西洋料理屋とを営んでおり、牛鍋などのご馳走を食べさせたものである。その座敷には芸妓などもよんだりしたが、さらに大正の初年からは、あわせてカフェ「を開いてにぎわっていた。その開業の当初には、おもに西伊豆の方面から、商品の牛肉を仕入れていたが、昭和の初年には、港湾の方に牛小屋を設けており、終戦の直後から、市内の双葉町や函南町に、いっそう大規模な牧場をもつようになって、きわめて堅実な営業を続けてきた。
下本町の開花という店は、すでに明治二〇年代から、浅間神社の裏にあって、料理屋として知られていた。この店の初代は、宮町で魚吉と名のって、魚の小売を営んでいたが、魚市場の仲間にささえられて、下本町で料理屋を開いたのである。その全盛の時期には、十数人の奉公人をかかえており、座敷で芸妓をよんで、料理を出してもてなすとともに、仕出しで料理を届けることもおこなわれた。戦時中の昭和一九年から、その店を閉じていたが、戦後の二五年から、旭町の方に移って、ふたたびその営業を始めている。
職人の組織
市街地の東端の三枚橋町から、その西端の出口町などを中心に、さまざまな分野の職人がすみついており、それぞれ独自の稼業を続けてきた。それらの職人の種類としては、染物屋、仕立屋、桶屋、樽屋、鍛冶屋、カナグツ屋など、生活の用具の製作とかかわるもののほかに、大工、左官、仕事師、畳屋、石屋、瓦屋など、建築の関係の仕事にあたるもの、床屋、髪結など、理容や美容のわざとかかわるもの、馬力引き、車引きなど、運送の関係の仕事にあたるものを含めて、きわめて多くの職種にわたっており、ここにたやすくあげつくすことはできない。おおかたは一軒の家族だけで、それぞれの専門の仕事に携わっているが、ただそれだけではなくて、ある一人の親方のもとに、何人もの弟子をかかえているもの、またささやかな規模ではあっても、いちおう工場の形態をそなえているものもあって、かなりまちまちな経営のあり方を示している。
そのような職人の仲間では、それぞれの職種ごとに分かれて、互いに何らかの連絡を取り合うだけであって、いくつかの職種にわたって、かならずしもまとまった組織をつくっているわけではない。ただ一つ、建築の職人の仲間では、明治年間を通じて、大工、左官、石屋、仕事師、畳屋、建具屋、ブリキ屋が、俗に七職という名でよばれており、それぞれ職種ごとの組合をつくっていたが、大正の初年からは、それらの七つの組合がまとまって、たがいに連絡をとりあうようになった。さらに昭和四年には、そのような七職の組合が、出口町の永明寺の境内に、工匠の祖神の聖徳太子を祀っており、大戦中の太子堂の焼失までは、正月、五月、九月の一一日に、その定例の祭典を営むのとあわせて、太子講の会合をもよおしたものであった。
戦後の昭和二七年には、さきの七職の組合に、表具師、庭師、ペンキ屋、瓦屋の四職と、金岡、内浦、西浦の三地区の大工とを加えて、改めて沼津連合建設組合の組織を整えたのに続いて、またこの組合の共同職業訓練所を設けて、大工、建具工、板金工、石工の四つの職種について、それぞれの技能者の養成にあたることとなった。それとともに、千本の長谷寺の境内に、新しい聖徳太子廟を建てており、今日まで、正月、五月、九月の一一日に、各組合の役員などがより集まり、それぞれの聖徳太子の掛軸をかけておいて、この寺の住職に経を読んでもらい、みなで太子講の会食をおこなうのである。
職人の伝承
そのような職人のくらしぶりは、それぞれの職種によって異なっているが、三枚橋町の瓦屋の家では、江戸時代には志多町で鍛冶屋を営んでおり、明治以降に現在の場所に移って、二代続けて瓦屋の仕事に携わったという。その先代にあたる人は、一四歳から徳倉で修業をつんで、二〇歳には一人前にあつかわれるようになったという。志多町の問屋から頼まれて、市内やその近辺における、家々の瓦葺きやその葺きかえを引き受けていた。いつも四人や五人の弟子をかかえており、少なくとも三人がかりで、一つの家の仕事にあたっていた。たいがいは清水瓦や三州瓦を使っており、その下には香貫などのネバツチを敷いたものである。
また、下本町の明治四三年生まれの髪結は、一九歳で結髪所に弟子入りして、七年間は師匠の仕事を手伝いながら、髪結のわざをおぼえていった。おもに芸者衆の髪結をつとめたが、若い人ならば高島田に結い、年増ならば銀杏がえしやつぶし島田に結ったものである。その主要な道具としては、横型の櫛と縦型の櫛とを使いわけたが、群馬県高崎市の櫛屋が、毎年のようにその行商に来ていたという。時勢の変化にともなって、この髪結の娘にあたる人は、あらたに美容院を営むようになった。
明治から大正にかけて、何人もの大工の棟梁が、本町区の出口町をはじめ、東宮後町、西宮後町、下小路町、下河原町などにすんでいたという。当時の大工などの弟子は、はじめの二年ほどの問は、もっぱら子守、弁当運び、木片運びなどのような、さまざまな雑用にかりたてられた。それから数年の年期をつとめたうえで、一年の礼奉公をすませるまでは、ひたすら忍耐と服従とをしいられて、ようやく一人前の仕事ができるようになったのである。その後もひき続いて、どこかよその親方の家に寝泊まりしたり、またサイギョウなどと称して、あちらこちらの普請場を渡りあるいたりして、何とかみずからの腕を磨こうとしたものは少なくなかった。
第五節
社寺の祭りと行事
日枝神社の祭り
沼津のような町場のくらしでは、その鎮守の神の祭りも、町風ににぎやかに営まれてきた。明治以降の氏子の組織は、三枚橋と上土と城内とが、平町の日枝神社を祀り、また本町だけが、浅間町の丸子・浅間神社を祀るというように、大きく二つの区域に分かれていた。そのほかに、三枚橋区の杉崎町の浅間神社、上土区の高島町の山神社、本町区の本田町の愛鷹神社、城内区の大手町の城岡神社などのように、それぞれ独自の神社を祀るものもあったが、今日では、その杉崎町と高島町と大手町とは、日枝神社の氏子から離れており、もう一つの本田町も、丸子・浅間神社の祭りにあずかってはいない。
それらの神社の中で、平町の日枝神社というのは、明治の初年までは日吉山王社という名で、大岡庄一四か村の総鎮守としてあがめられており、その氏子の区域は、沼津駅の三枚橋町、上土町、城内に、在方の日吉村、高田村、下石田村、木瀬川村、中石田村、上石田村、下小林村、上小林村、岡一色村、岡宮村、東熊堂村、西熊堂村を加えたものであった。その後の変遷を経て、現行の氏子の組織は、第一の山王前、平町一丁目、平町二丁目、山王台、富士見町、第二の三芳町、三枚橋町、第三の志多町、川廓町、上土町、町方町、第四の西条町、八幡町、添地町、上本通、大岡の日吉、高田、下石田、木瀬川、中石田、上石田、南小林、北小林というように、大きく五つのブロックに分けられて、交代で祭りの当番をつとめるのである。
九月二三日・二四日の例大祭は、その年の当番町から選ばれる、俗に当殿(とうどの)という少年と、また御前女(おまえじょ)という少女とによる、厳粛な白砂運びの神事をはじめ、一〇万石の大名の格式をたもつ、豪華な神輿の渡御など
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