故小林忍 侍従日記の詳細
昭和天皇の侍從だった小林忍氏の日記の詳報は次の通り。(表記は原文のまま)
1974年4月26日 田中氏から宮殿菊の間つつじ庭の桐の花が咲き始めたとの連絡あり、お上に申しあげたところ、お庭にお出まし。お供してつつじの庭左側の桐というのでみて回られたがわからずじまいで、場所を確かめておくようにとのおおせ。
5月5日 午前御散策。(中略)お上が最初「小林、暑ければ上衣をとっていいよ」とおっしゃられた。
9月13日 佐藤達夫氏(※注1)の献上のアヅマシライトの所で「遺品だな。持って来た人は死んでしまった。遺品だな」とおっしゃった。しんみりさせられた。
9月25日 東宮四殿下御参(中略)礼宮やんちゃで広間のドラを一発ならす。
1975年4月28日 今日は沖縄デーでデモ行進あり。失念していたところ、(中略)お召しで混乱の有無をお尋ねあり。全く報道されなかったので何もなかった旨申しあげた。「それはよかった。それはよかった」と非常にお喜びだった。
5月13日 「天皇の外交」伊達宗克著(NHK記者)(現代企画室刊)につき毎日新聞に広告が出ており、それに戦争のつぐないとして戦後平和外交を推進しているかの如く広告しているが、そのような内容ならそれはおかしい。戦前も平和を念願しての外交だったのだからと仰せあり。内容を調べてほしいといわれた。
11月24日 お上の近況について侍従長のお話(11月22日昼食事の時)。御訪米、御帰国後の記者会見等に対する世評を大変お気になさっており、加えて御体調がお風邪、下痢なども重なり御疲れが三重国体後もなお十分でないこともあり、御自信を失っておられるので(中略)記者その他専門家筋の批評が、お上の素朴な御行動が反ってアメリカの世論を驚威的にもりあげたことなど具体的につぶさに申しあげ、自信をもって行動なさるべきことを累々申しあげたところ、涙をお流しになっておききになっていたと。それで大変御気嫌よく19日の御訪米随員等のお茶御出ましの時は非常にお元気であったと。
76年2月26日 2・26事件の当日に当るので、宮殿にお出ましなし。
78年4月29日 夜は東宮五殿下、常陸宮両殿下吹上においでお祝い御膳。7時ごろから35分野生の王国(吹上御苑の野鳥)(NHK)(※注2)を皆様で御覧。
5月19日 東宮殿下がお上のお風邪の間色々と行事をなさったことについて天皇の代行なのか東宮殿下としてなさったものか、御名代とは何かなど論議が再燃している。今回の諸行事は急ぎきまったため十分な理論づけ、詰めがなされて行われたものでないため、その形式が先行して処理されたきらいがあり、そのために理論づけが曇ることになることを恐れる。
5月26日 宮内庁長官異動のびのびになっていた長官の異動今日認証式、発令。(中略)激動の戦後から新しい皇室制度の定着をはかったのは宇佐美氏のがんこさの功績であろう。新長官(※注3)がなお残る旧来のろう習にどのように立ち向うか、仲々むずかしいと思われる。入江、徳川両長老(※注4)のいる侍従職への発言力が高まると同時に、侍従長の重責がさらに高まろう。
6月20日 那須御用邸行幸啓。(中略)夜、那須から電話。日本帰化植物図鑑と高知植樹祭日程表をお忘れにつき送付されたしと。
10月23日 鄧小平副総理午餐。(中略)日中平和条約批准書の交換のため来日したものだが、大変な歓迎ぶり。(中略)国賓以上の報道ぶり。右翼の妨害に対する警戒ぶり厳重であることの報道ないのはどうしたことか。
79年8月17日 那須御用邸行幸啓。(中略)お庭御散策の際「山ユリの花が今日までにすっかり終ったことは例年より1週間位早いのではないか。マルバダケブキの花がもう咲いているところから、今年の秋は早く、寒さが早くくるのではないか」とおっしゃった。
80年2月19日 三宮様御参晩餐。(中略)大食堂からお戻りの際、はじめ高松宮さまが皇后さまのお手をお持ちだったが、お上がお焼きになるからと宮様がおっしやり皆様大笑い。お上がなさったらということでお上が皇后さまとお手をつないでお談話室にお戻り。大変ほほえましい、珍らしい情景だった。
5月27日 華国鋒首相との御引見にあたり、陛下は日中戦争は遺憾であった旨先方におっしゃりたいが、長官、式部官長は今更ということで反対の意向とか。侍従長は結構という意見らしいが、長官などの反対は、右翼の動きが気になるためという。しかし、国際的に重要な意味をもつことに右翼が反対しているから、止めた方がよいというのでは余りになさけない。かまわずお考えどおり御発言なさったらいい。大変よいことではないか。
81年5月5日 レンゲツツジ(赤と黄)満開。これは毒なので山野(那須でも)では馬も食べないためこれだけ残り、繁茂しているとお上。
6月6日 御生研からのお帰り時、大池通りにクサイチゴの赤い実が多く熟していた。「クサイチゴの実は野生のイチゴとしては最もうまいものである」「ヘビイチゴの実は、以前には毒だと言われていたが、毒ではない。しかし今では味がない(すっぱくも、甘くもない)といわれている」
85年2月26日 昭和12年(※注5)の2・26事件の日のため、午前中宮殿へのお出ましなし。午後は進講あり。
6月27日 国立防災科学センター、筑波実験植物園においで。植物園ではカワラナデシコについて強い疑問をおもちで、ハマナデシコではないかと。記者会見のあと黒川園長にお上のお考えをそっと伝えたところ、言下に否定した。
87年2月3日 高松宮殿下薨去(こうきょ)。
24日 全くお行事なく、お上も26日の2・26事件に当る日であるが1週に2回も何もない日があることは珍らしい。何か特別のわけでもあるのかのお尋ね。国会との関係、喪中であることなどから偶然そうなっただけと申しあげた。
4月6日 土曜日の御研究を午前中だけにすることについて御意見あり。(中略)午前中は1時間くらいしか時間がないので、須崎の採集物など研究するひまが少なくなってしまうので、午後を切ることは賛成しかねる。
7日 お行事軽減について御意見
仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛い(つらい)ことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれるなど。これに対し、戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない。個人的には色々おつらいこともおありでしょうが、国のため国民のためにお立場上、今の状態を少しでも長くお続けいただきたい旨申し上げた。昨夕のこと。
29日 豊明殿の宴会途中御退席。(中略)お席でお上がお食事をおもどしになったので、(中略)お歩きで泉の間にご退場。(中略)侍医の診察あり。一段と平常に近ずいていると。(当初、血圧70~130お脈85、お体温5・6°)。朝から胃のつかえがあった御様子で、基本的にはお疲れがあったところに(1週間前の記者会見の前後の緊張も原因の一つと思われる)気候不順など重なりこうなったと思われる。
7月19日 お上御異常。御車寄前植込横(東側)においでの時急にお立ち止り、不審に思っているとふらふらなさり始めたので、高木侍医長と田中侍従が左右からお支えしたところその場におくずれになった。(中略)侍医長のお尋ねに少し胸苦しい旨おっしゃった。(中略)心電図をお取りしたが格別の異常はないとのこと。(中略)4時からは大相撲のテレビを御覧になり、夜は御夕食も割合良く召上がり、8時からの「伊達政宗」を御覧になった。(中略)看護婦長にお話しになったところによると少しむかついたとのことで、エレベーターでの「胸苦しい」というのは「むかつき」をそう表現なさったのか。要するに脳貧血だったということであるが、その原因は結局よくわからないということ(中略)
9月21日 沖縄に浩宮さんに同行する筈だった宮内記者会の連中は出発当日19日の朝全員出発取り止めて、陛下の取材に動いたという。侍従室にも記者入れかわりやってくる。宮内庁発表(午)後3時 8月下旬から時々おなかが張るなどの御異常。(中略)明22日宮内庁病院にご入院手術の予定。(中略)概略以上のような発表。報道されている実状からみて何とも間が抜けている。
22日 御入院・手術国事行為の臨時代行東宮殿下当分の間御署名は「裕仁明仁」となさる(御訪米時と同じ)(中略)〈記者の質問攻めに遭い〉手術の時間は事前の診断やら、麻すいの用意やらで手術後も麻すいの状況など見守るため順調にいっても2時間半くらいかかるらしい。事前にそういう説明がないので、長びいていて悪い個所があったのではとか、いらぬおくそくが飛び交うことになる。
88年2月9日 「皇居の植物」原稿御覧。数日前から愈(いよいよ)。原稿お手許に出たので御熱心に御検討。あれこれ御注文やらお尋ねが当直の侍従にある。一度お答えしたものについて更にお尋ねなどあり、お上は根をつめて御検討なので御疲れが出るのではないかと心配される。
9月19日 御容態急変(中略)わが家には0時半と1時ころの2回朝日新聞社会部青柳氏から電話(最初は氏名不明)あり(中略)宮内庁から連絡はないかときいてきた。文子が寝ている旨答えた。何かあったと思ったが、もしそうなら当直の田中氏は対応に追われていると思い確認の電話はせず。
22日 国事行為臨時代行の委任(中略)御沙汰書には本来御署名があるところ今回それがおできにならないので陛下の委任する旨の御意思を明確にしておく必要があるとの法制局の意向で、御沙汰を伺った当直侍従から宮内庁長官宛に次のような文書を提出しておいてほしいとのことであったので、事務主管のト部侍従の名前で提出した。
(9月22日付)「天皇陛下から、国事に関する行為を委任する旨の御沙汰がありましたので、御報告します。宮内庁長官藤森昭-殿 侍従卜部亮吾(印)」
11月14日 案外持ちこたえ新嘗祭(にいなめさい)までは大丈夫という予想も出ている。
お召し 夜8時半すぎ侍従をお呼びというので御寝室に出た。言語不明瞭というより言葉になっていないので侍医2人、看護婦3人と何とおっしゃっているのか聞き耳をたてたが全く分からない。(中略)「明日にまた」と伺つてもそれは御承知にならない。今知りたいということらしい。お疲れになるばかりというので、侍医が安定剤を点滴に入れお眠りになるようにした。先週9日に安定剤を投与してからお眠りが多くなり、言語も不明瞭になってきたらしい。その分御病状は安定している。
12月1日 摂政問題御容態が現状のように傾眠状態が続き、意識が明確でなくなってくると、一時的でも意思表示ができればよいが、さもないと国事行為の代行では済まなくなる虞(おそ)れが出てくる。(中略)常時意識がはっきりしない状態であるとなると代行制度はなじまず、摂政を立てざるをえなくなるのではないか。幹部の間でも論議されている。
20日 昨日は「おじゃじゃ」ということもおっしゃったと。「痛い」とか「いや」とかも。侍医も驚いているというが、一時的なものかどうか。
23日 昨夜 侍医の「お寒くありませんか」の呼びかけにお首を左右にお振りになるなど反応をお示しになったという。
31日 9月の御発病以来、侍従長と侍従次長は日曜、祭日もなく毎日吹上に勤務を続けている。御容態の安定しているときぐらいはどちらか交替で休めばよいと思うのだが、東宮両殿下が毎日お見舞に吹上においでのこともあるのか休まれない。
89年1月6日 このところ輸皿の効果が仲々出にくくなっている。すべての機能が衰えてきているためという。尿も殆ど出ない状況が続き、愈(いよいよ)今度こそはという時期にきている。
7日 崩御 前・6時33分 朝5時すぎ当直の井原侍従から電話。御容態悪化したので待機していてほしいと。更に6時ころ電話で来るようにと。(中略)8時ころ吹上へ。すぐ御寝室に急ぎゆく。お別れの拝礼。既に侍医、看護婦の手でお体の清拭など行われ丁度終るところだった。間もなくお召ものをお着せすることが始まり、卜部氏と小生が主になって申又、袖なり肌着、小袖、バツ(シタウズ)(足袋指なし)、帯をおきせする。(中略)肌着は右手は袖を通したが左手は腕関節が既に固くなって曲がらないので袖に通すことができず、左手は肌着の中に包んで前部ボタンを掛けた。小袖も同様にせざるえお得ず、左手は袖を通さず、従ってたもとはお体にかけたようなぐあいになった。お体の下を小袖をくぐらせる時はお腰をもちあげたり、横にしたり仲々重い。まだ暖かみが残っていた。
23日 殯宮(ひんきゅう)一般拝礼は昨日1日だけで16万3400名の人が来たという。好天で割合暖かったせいもあろうが、それにしても大行天皇に対する国民の親愛、哀惜の情の深いのを感ずる。
11月29日 「皇居の植物」完成。懸案だった「皇居の植物」が納入された。(中略)立派なできばえ。
90年8月21日 徳川参与侍従室に来られ暫(しばら)くお話し。靖国神社への総理参拝で毎年問題となる戦犯合祀(ごろし)で東條など取りあげられるが、最も問題となるのはむしろ松岡、広田の文官(非軍人)が入っていることである。また特に松岡は日米開戦の張本人ともいうべきもので、日米交渉の最中、ルーズヴェルト大統領の出した条件に、陸軍も海軍も賛成していたのに松岡が自分が交渉に当らなかった故をもって反対したために交渉がまとまらなかったという。松岡は曰独伊三国同盟をまとめて帰国の途中、ソ連に寄り、日ソ不可侵条約を結んで、そのためドイツをひどく怒らせたとか、とにかく異常の人だった。松岡はA級戦犯の判決後2年くらいで病気のため入院死亡した。処刑されたのではない。と
11月14日 大嘗祭習礼。今日初めて大嘗宮を見る。仲々立派だが、14億円とはとても考えられない。
22日 陛下が悠紀殿にお入りになると剣璽及びお裾の侍従は同殿の西側簀子(すのこ)に出て坐り、陛下のお帰りを待つが、このあと2時間40分の間この3人だけで待機するのは大変だからというので他のお供の侍従6人も3人ずつ組んで20分ずつ交替で簀子に坐る。(中略)采女、掌典の内部における神セン供センの儀の終るのを待つ間庭燎の明りだけがともされ神秘的な雰囲気をかもし出す。
(※注1)74年9月13日の「佐藤達夫氏」は、法制局長(当時)を務めたこともある人事院総裁だった佐藤氏。9月12日に死去した。
(※注2)78年4月29日の「NHK」は「TBS」の誤りとみられる。
(※注3)78年5月26日の「新長官」は、警察官僚の冨田朗彦氏。
(※注4)同じ日付の「入江、徳川両長老」は、当時の入江相政侍従長と徳川義寛侍従次長。
(※注5)85年2月26日の「昭和12年」は「昭和11年」の誤りとみられる。
「小林忍侍従日記」らの引用、記述部分の表記は、基本的に原文のままとしました。
【静新平成30年8月23日(木)朝刊】
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