故小林忍侍従(富士出身)日記
リアルな日常で貴重
昭和天皇の晩年や平成時代の始まりなどを記述した侍従、故小林忍氏(富士市出身)の日記が見つかった。昭和史に詳しい作家の半藤一利氏とノンフィクション作家の保阪正康氏が、全文を読み、歴史的価値などについて語り合った。
ー主体の感想は。
半藤 昭和の終わりから平成にかけて、天皇の代替わりが日本にどれくらい影響があったのか、その時は分からなかった。今また平成が終わり、新しい年号が始まる。この国の歩みや形が大きく変わる。同じ事をもう一度体験することが予想され、この日記から学ぶものが出てくると思う。
保阪 昭和天皇の晩年の姿を語るのに柱になるのは、主に幹部の日記だったが、小林日記は一侍従の立場で見ているという点が興味深い。宮中の日常の人間関係、息づかいが、はっきり出ている。どの天皇の時代でも、目的は皇統を守ることだが、皇統を守る手段として選んだ戦争への悔恨、負い目、悔しさ。昭和天皇の中にずっとあったのではないか。
戦争責任
ー1987年4月、倒れる直前に「細く長く生きても仕方がない。(中略)戦争責任のことをいわれる」と発言した。
半藤 細く長く生きても仕方がない、というのはすごい言葉だ。びっくりした。昭和天皇の心の中に最後まで戦争責任があったのだと分かる。
保阪 重くのしかかっていたのだろう。(87年は)天皇に意識がある、ほとんど最後の年。歌会始への出席もこの年が最後。こういう言葉を吐くときの心理はどういうものか。(87年2月の高松宮の死など)弟宮との別れ、戦争責任。つらいことを見たり、聞いたりすることの方が多いというのは、一人の人間としての言葉だと思う。
ー75年の訪米直後の会見で「(戦争責任という)言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよく分かりません」とした自身の発言を気に病んでいたことも出てくる。
半藤 当時、メディアで大問題になった。戦争責任の問題は、憲法的には天皇は無答責。私は大元帥としての戦争責任はあるのではないかと思うが、前線の兵隊が「天皇陛下万歳」と言って死んだということで責任を追及するのは、心情的なもの。心情的であって法的でないということは文学的だ。昭和天皇の答えは、これしかなかったかと今は思う。当時は「そんな言い方はないじゃないか」と思ったが。
保阪 (同じ会見での)原爆投下は「やむを得なかった」という発言もそう。昭和天皇は君主として、私たちとは表現の仕方が異なっている。情ではなく理で答えようとする人だと僕は考えている。しかし、常識的に言って、開戦詔書に署名した人に責任がないといったら世の中の仕組みが崩れる。責任はある。問題はどういう責任なのか。昭和天皇がどう考えているのかを分析しなければいけない。皇祖皇宗には天皇個人として感じていると思う。国民に対しては人道的にあると思っているだろう、お歌を詠むと、申し訳ないという気持ちはあると思う。だが法的、政治的には責任があるとは思っていない。
半藤 私もそう思う。ただ、この日記を読んで、天皇の地位にある限り(戦争責任について)ずっと思っていらしたなと響いた。
人間宣言
ー発言を気に病んだ昭和天皇は入江相政侍従長(当時)の励ましを「涙をお流しになって」聞いていたとある。
半藤 在位60年だったか、お祝いの壇上で昭和天皇の頬に涙が伝っていた写真がある。でも、文字として読んだのは初めてだ。
保阪 少年時代の帝王学が昭和天皇をずっと束縛していたと思う。人前で涙を流すのは帝王学のイロハのイに反すること。年を重ね、少しずつ帝王学から離れているようなところがある。私の名において戦争をした、私はどうすればいいんですか、みなさん、ということだと思う。(国策決定は)法人格、機関として行われることであり、昭和天皇は、自身の人格、感情とは関係ないと教えられてきた。少しずつ脱皮していくのが戦後だった。人間的な感情が湧いて涙を流すのは、帝王学から逃れることができたからではないか。
半藤 戦後の全国巡幸(じゅんこう)で東北へ行った時に、小さな女の子が遺骨を差し出した。昭和天皇の頬がひくひくと動いた。入江(元侍従長)から聞いたことだが、ひくひくとなるのはもうお泣きになっているということだ、と。天皇は涙を流さない。昭和天皇は15歳から軍人として厳しく育てられた。帝王学で育った部分が、窮屈だったのではないか。涙を流したことに「人間宣言」の真情があるのではないか。 保阪 昭和天皇が人間になっていく。涙を流すようになるのが戦後の道筋なのだと。小林さんの日記はそれを語っていると言える。細部を書いているのでよく分かる。
ー昭和天皇は二・二六事件が起きた日には、毎年喪に服している。
保阪 亡くなった重臣たちへの哀悼だ。青年将校は「君側(くんそく)の好(かん)」と言ったが、天皇からすれば「股肱(ここう)の臣」。戦争貴任の問題と二・二六が関わり合う話が出ないか、事件が道を誤らせたというのがあればと思ったが、日記には出てこない。
半藤 帝王学が行き届いていて、天皇は歴史を勉強してはいけない。自分の思いを語ることはあっても、客観性のある歴史を勉強しなかったのではないか。今"の天皇陛下は象徴天皇とは何かを一生懸命考えてきた。昭和天皇は象徴になりきれなかったのではないか。
ー沖縄に関しての記述は。
半藤 (87年に)倒れたとき沖縄に行く予定があった。病床で沖縄には行かねばとしきりに言っていたと聞いた。小林日記には出て「こない。
保阪 小林さん自身に問題意識がなかったのではないか。
半藤 病状悪化以降、この日記は光彩を帯びてくる。それが小林日記の価値。陛下が病気になってからの記載は非常に詳しく、ここにしかない。
涙流す人間への道筋
代替わりの空気
ー昭和天皇の植物への関心は頻出する。
半藤 植物学への言及の多さはすごい。特筆すべきだ。こんなに植物を知っている学者なのかと。
保阪 好きなことに向き合っているときが幸せだったと思う。
ー代替わりまで1年を切ったが、そういう視点で読むとどうか。
保阪 参考になるとすれば、代替わりの空気。昭和とは全く違うだろうが、宮中に漂う人闇的な空気は、相当大事だと思う。前回は天皇の死去で即位した。今度は、悲しみとは別な落ち着いた空気ができるだろう。
半藤 新しい天皇が立った時、(旧天皇の)侍従たち内部に、自分たちにはもう関係ないという空気がこの日記にあるでしょう。次もこうなるのでは。今の侍従は2年くらいで交代する、だから天皇・皇后は孤独ですよ。昭和の方がはるかにいい。同じ人がずっとそばにいるわけだから。
ー今の天皇陛下の独白録は出てこない。
半藤 ないでしょう。小林さんの日記みたいなものも出てこない。
保阪 こういうやりとりは書けない。長官や侍従長も昔のような日記は書けないでしょう。今の皇太子さまの即位後は、もっと希薄になるのだろう。
半藤 小林さんは即位の礼の行事を細かく批判し、「先例となることを恐れる」と書いた。次の即位の礼で日記にあるような、いざこざがあれば大問題だ。小林さん、厳しいね。
冷徹な視線
ー改めて小林日記の価値と面白さを。
保阪 天皇に仕える人が、天皇との距離をどう書くかは、侍従一人一人の性格、考えかたによって違う。小林さんは天皇への愛着よりも、自らの仕事としてみていた。ここは隠すだろうということも書く。仕事に徹した人が、虚飾無く書いているという点で、信頼を持てると思った。
半藤 昭和天皇のそばに居た人は、現人神(あらひとがみ)時代を知っている場合が多い。入江(元侍従長)しかり、徳川(義寛元侍従長)しかり。小林さんは若かったせいもあり、脱却している。リアリスティックに天皇の日常を書いたという意味で大変面白く貴重。宮中で何が起きているかについて、官僚として冷徹に見ている。宮中のごたごた、上下関係が非常によく分かった。この人はクールですね。それだけにリアルだ。
ーこういう性質の日記は他にあるか。
半藤 今までみた範囲ではない。
保阪 (小林さんは)想像は決して書かない。責任持って想像してくれれば面白いのだけれど。
半藤 同一平面。強調する部分がない。徹底的に実務だ。
保阪 (作家の故)松本清張が喜びそうな史料だ。
半藤 そうだね。清張は喜ぶよ。これは信頼できると言ってね。本当にいい入が日記を残してくれました。
(静新平成30年8月25日(土)朝刊「昭和天皇の『戦後』つづる」:半藤氏・保阪氏対談)
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