2018年2月20日火曜日

西周とその時代 土屋詔二

西周とその時代 土屋詔二
沼津駅西側の「あまねガード」の名前は、沼津兵学校の頭取・(校長)だった西周(にしあまね)に因んだものであり、南口のイーラde脇にレリーフが設'置されている。幕末維新期を代表する知識人であるが、西の人物像を知らない若い人が増えているという。
 新約聖書に「始めに言葉ありき」とあるように、言葉と認識は不可分である。明治維新後の文明開化にとって、西洋の近代学問の用語を日本語化することが非常に大きな役割を果たした。その中心人物が西周だった。
 一八二九年、石見国津和野藩の御典医の家に生まれた。山陰の小京都と言われる津和野は森鴎外の生地であるが、鴎外は西の従甥にあたる。
 一八五三年のペリー来航に衝撃を受けた江戸幕府は、洋学、すなわち西洋の諸科学の摂取に真剣に取り組み始めた。その一環として、一八六二年に西は幕命でオランダに留学。西洋の先端的学問を学んで三年後に帰国し、幕府の教育研究の要職に就いた。
 徳川慶喜が一八六七年に大政奉還して徳川家が下野し、静岡に転封となった。沼津兵学校は静岡藩の士官養成校であるが、幕府が蓄積してきた膨大な知的資産を継承し、保存・活用することも狙いだった。教授陣には幕府を代表する人材が揃えられ、近代教育のモデルになるカリキュラムが組まれた。
 西が沼津兵学校に着任するため来沼したのは、榎本武揚らが戊辰戦争で抗戦の拠点とすべく箱館の五稜郭を占拠した一八六八年一〇月だった。
 徳川慶喜の信頼が篤かった西は、奉還の前旧、奉還後の政権構想について諮問され、イギリス政治の実際や様子や三権分立の概略について話し、その夜に文書にして、翌朝献上した。上表文の「広く天下の公議を尽くし」に反映していると言われる。
 西は、明治三年には乞われて新政府に出仕しだため、沼津在住は二年足らずの短期間だったが、西にとっても日本にとっても重要な時期だった。
 明治六年に森有礼らと学際的な集団・明六社を設立し、機関誌『明六雑誌』を発行して啓蒙活動を主導した。日本学士院の始原である。明治一四年には獨逸学協会学校の設立に参画し、初代校長に就任した。猫協大学の母体であり、日本における教養、(リベラルアーツ)教育の草分け的存在である。
 西は、現在われわれが普通に使っている「科学」「技術」「芸術」「概念」「命題」「帰納」「演繹」等々の言葉を考案したことで知られる。これらの言葉が日本人のモノの見方・考え方の近代化に大きな役割を果たしたのである。
 松尾義之著の『日本語の科学が世界を変える』には、「西周なくして、日本語の近代学問はありえなかったと思うようになる」とある。
 今年は明治一五〇年という節目の年である。激動の時代を生きた西周の功績を振り返る良い機会ではないだろうか。(高島本町)
【沼朝平成30年2月20日(火)言いたいほうだい】

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