2018年2月4日日曜日

高尾山古墳「両立最終案経過を振り返る:沼朝平成30年2月4日(日)記事」

高尾山古墳と都市計画道路
両立最終案までの経過を振り返る
二〇〇九年の発見以来、古墳保存と都市計画道路整備を巡って論争が続いていた高尾山古墳(金岡地区東熊堂)の問題は、双方を両立せるための最終案が昨年十二月二十一日に発表され、一応の決着を見た。同古墳を巡る一連の経緯や関連事項を年表形式で振り返る。
二世紀後半高尾山古墳で出土した鏡が作られる。
二一五年魯粛が巴丘(現在の中国湖南省岳陽市)に岳陽楼の前身となる建物を造る(*)。
二三〇年頃高尾山古墳が建設される。
二四七年頃卑弥呼が率いる邪馬台国と卑弥弓呼が率いる狗奴国が戦う。卑弥呼が死ぬ。
二五〇年頃高尾山古墳で埋葬が行われる。
一八四六年東熊堂村の住民が現在の山梨県南アルプス市の穂見神社から分霊を迎えて高尾山穂見神社を上荒久に建立する。
一八八八年高尾山穂見神社が熊野神社境内に移る。
一九六一年沼津南一色線の建設が都市計画決定される。
一九七八年加藤学園考古学研究所の小野眞一氏が周囲の地形状況から高尾山穂見神社は古墳であると予言し、将来発見されるであろう古墳を「高尾山古墳」と命名する。当時は、五世紀禾から六世紀にかけて造られた方墳であると考えられていた。
二〇〇七年七月道路建設に伴う発掘調査の試掘が行われ、高尾山穂見神社が前方後方墳であることや、この古墳が三世紀に築造された可能性があることなどが判明する。当時は「辻畑(つじばたけ)古墳」と呼ばれていた。
二〇〇八年五月古墳の本調査が始まる。
二〇〇九年九月▽八日=辻畑古墳が国内最盲級の古墳である可能性が報道される。
▽十三日=一般向けの現地説明会が開かれる。
二〇一一年六月二十九日古墳名が「辻畑古墳」から「高尾山古墳」に改称される。
一一〇一二年三月市教委による「高尾山古墳発掘調査報告書」が刊行される。古墳築造年代として、いわゆる二三〇年説と二五〇年説が提示された。二三〇年説に立つ赤塚次郎氏は、同古墳と東海地方文化圏との関係を論じた。この考え方は、同古墳は魏志倭人伝に登場する狗奴国との縁が深いとする説につながる。
七月二二日高尾山古墳シンポジウムが市民文化センターで開かれる。
十一月五日日本考古学協会が埋蔵文化財保護対策委員会の矢島國雄委員長名で古墳保存の要望書を文化庁・静岡県・沼津市に提出する。
一一〇一四年五月十五日古墳築造年代を確定させるための再調査が始まり、七月十八日まで行われる。
八月二十七日市長定例会見の中で、再調査の結果が発表される。市教委は、二三〇年頃に古墳が完成し、二五〇年頃に埋葬が行われたとする見解を示した。
一一〇一五年四月二十六日沼津市議選が行われる。
五月▽二十五日=日本考古学協会が高倉洋彰会長名で高尾山古墳の保存を求める内容
の声明を発表。
▽同日=古墳の現地保存を断念し、解体調査を実施してから沼津南一色線を従来の計画通りに建設する方針が市議会文教消防委員会(現文教産業委員会)で市教委から報告される。その後の報道対応の中で市教委は、日本考古学協会の会長声明と同日になったことについて「市議選などの影響で議会への報告が遅れていた。声明と重なったのはまったくの偶然」と説明。また、「道路の建設を早く進めろという市民の声はあっても、古墳の保存を求める声はない」との認識も示した。
▽二十七日=市議会建設水道委員会で道路建設課が沼津南一色線の整備万針について報告。調査の後、平成二十九年度に建設工事に着手し、三十三年度末までの完成を目指す計画だった。文消委では計画の是非を巡る質問は出なかったが、この日初めて一部委員から計画への疑義が表明された。
▽二十九日=歴史学者で静岡文化芸術大学教授(当時)の磯田道史氏が、テレビ番組収録の一環で高尾山古墳を見学する。
六月▽二日=古墳近隣の東熊堂、西熊堂、豊町、松沢町、高尾台の五自治会の代表者が市役所を訪れ、沼津南一色線の早期建設要望書を市長宛てに提出した。栗原裕康市長が自ら代表団を迎えた。
▽十日=高尾山古墳の保存問題を取り上げた磯田氏の連載コラムが読売新聞に掲載される。文中で磯田氏は古墳と狗奴国の関連を指摘する説を紹介した。
▽十二日=古墳保存を求める市民団体の設立趣旨説明会が金岡地区センターで開かれ、市議会に古墳保存を求める陳情審を提出する方針が発表される。
▽十六日=金岡地区の住民らによる団体「高尾山古墳を守る市民の会」、考古学や郷土史の専門家による団体「高尾山古墳を考える会」、インターネット上を中心に活動する団体「高尾山古墳の保存を望む会」の三団体が連名で古墳保存を求める陳情書を市議会の浅原和美議長に提出。
▽同日=栗原市長が定例会見で古墳を解体調査する市の方針を改めて表明。一方で「やみくもに道路建設を強行するものではない」と表現したほか、古墳保存については関係機関との調整を続ける意向も示した。

古墳解体予算決するも
両立に国交省の強い意向
(二〇一五年六月)▽十九日=市議会本会議での古墳に関連する質問への答弁の中で、栗原市長が「報道や学者の意見を聴くだけでなく、古墳の現場や出土品を実際に見た上で古墳について考えてほしい」と市民に呼び掛ける。
▽二十二日=文教消防委員会と建設水道委員会の所属議員と正副議長が古墳を視察。
▽二士一百=市議会で陳情書に対する連合審査会が開かれ、出席議員が保存問題に対する意見を述べる。一般会計予算決算委員会で古墳解体調査費五一〇〇万円を含む補正予算案の審議が行やれ、10対3の賛成多数で可決すべきものとされた。
▽三十日=多くの報道関係者が傍聴席に詰めかける中、市議会本会議で補正予算案が21対6の賛成多数で可決された。本会議終了直後、栗原市長は議場の外で記者団の取材に応じ、補正予算執行の一時停止と学識経験者を交えた協議会の開催を電撃発表した。
七月▽十五日=古墳保存を求める三団体が栗原市長と工藤達朗教育長に宛てて古墳保存要望書を提出する。いずれも代理人が受け取った。
▽二十日=市民団体による署名活動が始まる。
八月▽六日=栗原市長による異例の臨時会見が開かれ、協議会開催内容の詳細が発表された。市長は報道機関からの質問に対し、従来の方針を「白紙撤回する」と表現した。
九月▽三日=第1回協議会が開かれ、市側から道路と古墳の両立が可能な道路設計案を再検討することが表明される。
▽同日=岡宮自治会が沼津南一色線の早期整備などを含む要望書を粟原市長に提出。市長本人が受け取る。この場で市長は「古墳に対して国土交通省が強い関心を持っている」と明かした。
▽十日=県教委による古墳視察が行われ、木苗直秀教育長と委員五氏が古墳墳丘に上がる。
十一月▽十日=各地区で開かれていた「市長と語る会 協働のまちづくりミーティング」が金岡地区でも開かれ、栗原市長が地区住民に保存問題の経緯を説明。その中で、道路と古墳の両立には国交省の強い意向が働いていることを述べた。
▽十六日=三市民団体が古墳保存を求める署名一六、三六〇人分を栗原市長宛てに提出。市長の代理人が受け取る。
▽十九日=第2回協議会が開かれ、①古墳を撤去しない、②沼津南「色線は上下四車線で建設する、の二大原則が確認される。道路と古墳の両立を可能にする案の一つとして「T字路案」が出される。
二〇一六年二月▽四日=第3回協議会が開かれ、有識者委員三氏がT字路案(B案)を推奨する。協議会終了後、栗原市長は記者団に対して同案採用への意欲を表明した。
▽十日=沼津法人会主催の講演会で磯田氏が古墳保存問題の経緯について話し、国交省と自身の関与を明らかにした。
▽十二日=市議会本会議で行われた施政方針演説の中で、栗原市長が高尾山古墳について「国指定史跡に向けた取り組みや活用計画の検討に着手する」と表明する。
▽同日=市が古墳保存費用への寄付の受け付けを開始する。
▽十三日=考古学愛好家団体によるシンポジウム「第1回狗奴国サミットin沼津」が市民文化センターで開かれ、静岡大学名誉教授で元沼津市史編集委員長の原秀三郎氏が古墳被葬者について伊香色雄命(イカガシコヲノミコト)であるとの仮説を発表する。
十月▽三十日=沼津市長選で新人候補の大沼明穂氏が大勝。栗原市長が確定させた古墳保存と道路整備の両立という方向性に市内では大きな異論はながったため、古墳問題は市長選の争点とはならなかった。
▽三十一日=当選証書を受け取った大沼氏は、その後の記者団によるインタビューで栗原市長の両立路線を踏襲することを明言。
十一月▽七日=小野眞一氏死去(88歳)。
▽十日=大沼氏が市長に就任する。
▽二十八日=古墳保存要望団体が大沼市長に面会する。沼津市長が保存要望関係者と公の場で面会するのは、これが初めて。
二〇一七年五月二十四日古墳保存要望団体からの質問に対する市側回答という形で、T字路案の採用が困難であること、他案を検討対象とすることが示された。
八月二十九日金岡地区で開かれた「市長
と語る会元気な沼津!まちづくりトーク」において、大沼市長が年内に最終的な方向性を示したいとの考えを述べる。
十二月二十]日市議会全員協議会が開かれ、最終案が正式発表される。有識者協議会で出されていたH案を改良したもので、上下四車線の道路を二車線ずつに分け、古墳西側の二車線を地下トンネルとし、東側二車線は橋梁にして古墳を跨ぐ。原初のH案では東側車線は地上道路となっていた。
(*)沼津市と友好都市提携を結んでいる中国の岳陽市は、三国志の物語と縁が深い。魯粛は三国の一角である呉国の創成を支えた名将の一人。高尾山古墳は邪馬台国と同時代の古墳であると言われている。その邪馬台国の存在は、中国の歴史書『三国志』の一節である「魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条(魏志倭人伝)」に記録されている。高尾山古墳の被葬者は、卑弥呼と同じ時代を生きた人物であると同時に、三国志の英雄達と同時代の人でもあった。三国志の物語に登場
する主な人物の没年を掲げる。

(沼朝平成30年2月4日(日)一面)


平成21年9月13日現地説明会時の動画↓

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