2014年8月3日日曜日

伊豆学研究者が沼津と伊豆地域の関係を解説

「沼津藩と韮山代官」
 伊豆学研究者が沼津と伊豆地域の関係を解説

 沼津史談会(菅沼基臣会長)は先月、第4回「沼津ふるさとづくり塾」として第2回地域講座を市立図書館で開き、橋本敬之氏の話を聴いた。橋本氏は「沼津藩と韮山代官」と題して話し、約百人が聴講した。

 江戸期から明治を中心に
 沼津史談会地域講座
 橋本氏はNPO法人伊豆学研究会の理事長を務めている。同会では、伊豆地方の歴史や自然、産業、文化などを網羅した『伊豆大事典』の編さんや、伊豆各地の史料調査などのほか、伊豆の国市田京で地域交流施設「いちごすてーしょん」の運営も行っている。
 講演では、沼津と伊豆地域との関わりの歴史的経緯について話した。
 もともと伊豆国は駿河国の一部で、天武天皇九年2(六八〇)に分離。江戸時代初期、現在の三島市役所北側の地に三島代官所が置かれ、一帯を治めた。これは、後北条氏から伊豆支配を引き継いだ徳川家康が天正十八年(一五九〇)に設置したもので、その取り扱い石高は八万六千石だった。
 一方、韮山代官は慶長元年(一五九六)、家康が伊豆の豪族江川家の第二十八代英長を代官に任命したのが始まりだった。
 このころ沼津では、関ヶ原の合戦の翌年となる慶長六年に大久保忠佐が沼津三枚橋城主となり沼津藩二万石を領有した。しかし、慶長十八年に忠佐が死去すると、跡取りがなかったため沼津藩は取り潰された。三枚橋城も廃城となり、それまでの沼津藩領は、駿府徳川藩領や幕府直轄領、旗本領などとなった。
 その後、安永六年(一七七七)に水野忠友を藩主として沼津藩が成立し、新たに城も築かれた。この沼津藩は文政十二年(一八二九)までには五万石となり、比較的豊かな財政状況で、安定した統治が行われたという。
 伊豆国では、韮山代官が三島代官に統合されることもあったが、最終的には韮山代官が残って三島代官が吸収された。水野家の沼津藩が成立して駿東地域の政治経済が安定したため、三島代官は不要になり韮山代官に一本化されたのだという。
 この沼津藩は、伊豆各地にも領地を持っており、これらを支配するために中(三島市)、平井(函南町)、白浜(下田市)に陣屋(出張所)を設置していた。白浜陣屋は、下田港防備のために火薬庫を備えていた。
 こうした飛び地の村々では、「相給(あいきゅう)」といって、一つの村を複数の領主が支配することもあった。村内でくじ引きをして、どの家がどの領主に治められるかを決めることもあったという。
 同じ村内でも、領主が異なれば法も異なり、例えば沼津藩水野家と他の旗本によって分割統治されている村では、沼津藩主が死去した際は喪に服することが命じられたが、これに従うのは沼津藩側に所属している家だけで、旗本側の家は従う必要がなかった。
 こうした陣屋管理の地域についての史料は今も残されており、それには八十歳以上の住人を対象にした「養老給付」など福祉政策についてのものや、水野家沼津藩成立時に、その領地となる予定の各村に幕府から送られた「沼津城の領地になってもよいか」との問い合わせ状などが含まれている。
 明治になると、沼津藩は上総国菊間(現在の千葉県市原市)に転封となり、沼津一帯は旧徳川将軍家の治める静岡藩領となった。
 静岡藩は沼津兵学校を設立して全国からエリートが集まり、そこからは近代日本の国づくりに活躍した人材が輩出した。明治四年(一八七一)、廃藩置県により静岡藩は静岡県となった。
 伊豆は、江川家三十七代英武を知事とする韮山県を経て、現在の神奈川県西部と共に足柄県となった。明治九年(一八七六)に足柄県は分割され、伊豆半島は静岡県に編入されて現在に至るが、この編入には住民の反対も多く、編入当初は静岡県からの離脱を願う署名運動もあったという。
 橋本氏は、この講演の中で「郷土史研究では、地域に埋もれている史料の地道な調査が不可欠だが、少人数では限りがある。多くの人が協力して史料調査を行い、特定の研究者に集約していくことが大事ではないか」などと話した。
 沼津史談会の匂坂信吾(さぎさか・しんご)副会長は今回の講演について、「伊豆学研究会として地域の様々な活動に携わっている橋本氏を通して沼津と伊豆との関係を学ぶことは、これからの沼津のあり方を考える際の手がかりになるのでは」と話す。
 なお、同会による第5回「沼津ふるさとづくり塾」は十六日午後一時半から市立図書館四階の視聴覚ホールで開かれ、第3回市史講座として、早稲田大の湯川次義教授が「近代沼津の教育-岳陽少年団の成立と展開」と題して話す。
 参加には資料代五百円が必要。申し込みは、匂坂副会長(電話〇九〇―七六八六ー八六一二)へ。

(沼朝平成2683日号)

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