2011年11月22日火曜日

信長に降伏後埋めた濠?跡を発見


自治都市今井町:信長に降伏後埋めた濠?跡を発見 奈良


織田信長に降伏した後、武装解除のために埋めたとみられる濠跡(調査担当者が指し示している場所)=奈良県橿原市今井町で、高島博之撮影
 奈良県橿原市教委は21日、室町時代から江戸時代にかけ自治都市として繁栄した同市の今井町で、16世紀後半に埋められたとみられる濠(ほり)跡を発見したと発表した。今井町は石山本願寺(大阪市)とともに織田信長に対抗し、周囲に濠や土塁を築いて武装都市化したが、同寺が信長と休戦後、今井町も信長に降伏し、武装解除して埋めた濠の可能性があるという。【高島博之】

 発掘調査は、駐車場の整備に伴い、今井町の西側の約400平方メートルで8月から行われている。発見された濠は同町の西側に南北方向に延びるもので、幅は少なくとも2メートル以上、長さ約10メートル分を確認した。過去の発掘調査で、16世紀後半当時の今井町(東西約450メートル、南北約250メートル)の周囲を2重ないし、3重の濠が巡っていたことが確認されており、今回の濠跡は、最も外側の「外濠」だった可能性が高く、橿原市教委は幅約15メートルの大きなものだったと推定している。
 98~99年の調査では、今井町の南側で見つかった外濠が16世紀後半に埋められたことが、一緒に出土した陶器の年代から分かっており、同市教委は今回発見した濠も同時期に埋められたものとみている。

 今井町は16世紀、一向宗の拠点としての寺内町として発展。石山本願寺が信長と戦った際は、同町は濠や土塁を巡らして武装化を強めていたという。
 しかし、1575(天正3)年、石山本願寺と信長が休戦すると、今井町は信長軍の明智光秀に降伏し、土塁を壊して武器を捨てるなど武装解除に応じたことが、光秀から信長への書状に記されている。同市教委はこの時期に濠が埋められたとみており、調査担当の米田一・同市教委文化財課係長は「今井町が武装化していた寺内町から商業都市へと変化していく様子をうかがわせる発見」と評価する。

毎日新聞 2011年11月22日 10時49分

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