2024年5月1日水曜日

水野忠恒(ただつね)狂気 (信濃松本藩第6代藩主)

 



水野隼人正忠恒 大廊にて俄に心くるい 水野隼人正忠恒狂気

享保十年(1725)〇七月廿八日、この日不慮の事出来しは、水野隼人正忠恒婚姻の事謝せんと登城し、ことはてて御前より退く時に、大廊にて俄に心くるい、佩刀をぬき、毛利主水師就(長門国萩城主毛利家の分家、同国清末領主)に手おわせたり。師就狂人と見しかば、いかにもしてをし捕らえんとせしに、忠恒ものもいわず、ただ切りかかりければ、やむことを得ず、師就差し添えの鞘ながら抜きあわせ、忠恒が刀もちし手をしたたかに打ち手、その佩刀を打ち落とす。かたわらより戸田右近将監氏房(美濃国畑村城主・隼人正の妻の弟)、いそぎ忠恒を押しとどめぬ。このとき目付長田三右衛門元郷も、柳の間のかたより走りより、押しへだてて後、双方の宿意をただされしに、忠恒申すは、我等身の修まらざる事ども世に聞こえ、こたび所領の地召し上げられ、師就に賜わるよし聞きて、憤りにたえず、かくはからいしなりと、あらぬ事となりければ、まったく狂気の致す所にまぎれなしとて、秋元伊賀守喬房にあづけらる。師就をばいたわりて、番医成田宗庵直寛、栗崎道有正羽をそえて家に帰さる。忠恒が宅には、太田備中守資晴(睦奥国棚倉城主・妻が水野忠恒の妻の姉)に大目付北条安房守氏英、目付三宅大学康敬をそえてつかわされ、家人等にそのむねつたえられ、邸宅をば収公せらる。また戸田右近将監氏房は姻党なるをもって、忠恒が家をまもるべしと仰せ下さる。)同月廿九日、酒井頼母忠衛、きのう水野隼人正忠恒狂気せし時、戸田右近将監氏房がとり押さえたるを見ながら、属吏等に事つたえ、とりしづめさせんとて其所をさり、ただちに奥の方にまいりて出ず。既に忠恒狂気せしさまを知らば、みづからおしとどむべきにさはなく、はた、その事のさまをもたださずありしは、職掌に似つかはしからぬ挙動なればとて士藉を削らる。忠恒が私邸は藤堂和泉守高敏にあづけらる。

◯同三十日、また、水野隼人正忠恒、酒井頼母忠衛が一族等御前をとどめらる。

 ●八月朔日、さきに水野隼人正忠恒が営中にて狂気せしこと、遠国にあやまり聞こえなば、驚愕するもの有るべしとて、国々にありさまを示さる。

◯同月廿七日、先に秋元伊賀守需房にあづけられし水野隼人正忠恒が所領信漫国松本城七万石を収公せらる。されど閥閲を思召さるるにより、もとの隼入正忠直が九子卯之助忠穀に、采邑七千石を賜わりてその家をつがせらる。毛利主水師就も疵平癒し、その宗家毛利長門守吉元よりも申旨あれば、忠恒をゆるされ、忠穀がもとに篭居せしむ。忠穀が兄宮内忠照、今まで忠恒より廩米二千俵をわかち置しを、あらためて采地となし、二千石下さる。

●九月六日、さきに収公せられし水野隼人正忠恒が濱町別邸の内を、水野惣兵衛忠穀、水野宮内忠照にわかちたまわる。

〔御家中興記〕 享保十巳 八月廿七日 水野卯之助 水野宮内 同氏隼人儀令乱心於

(「沼津略記」9293頁 沼津市立駿河図書館平成2331日発行)

 

 

水野忠恒 (大名)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

水野 忠恒(みずの ただつね、元禄1486日〈170198日〉 - 元文4628日〈173982日〉)は江戸時代の大名。信濃松本藩第6代藩主。沼津藩水野家6代。

4代藩主水野忠周の次男。母は前田利明の娘。正室は戸田氏定の娘。官位は従五位下、隼人正。

生涯

江戸日本橋浜町邸で生まれた。幼名は為千代。嫡男ではなかったため後継者としての自覚も無く、日頃から酒色に耽って、みだりに弓矢を射たり鉄砲を撃つなどの奇行がたびたび見られたと伝わる。ところが、享保8年(1723年)に兄の水野忠幹が嗣子無きまま没したため、兄の遺言により松本藩主となった。藩主になってからも相変わらず酒に溺れて狩猟ばかりし、藩政は家臣任せだったと伝わる。また、普段から気の短い性格であったともされている]

享保10年(1725年)、大垣藩主戸田氏長の養女(戸田氏定の娘)を娶り、721日に婚儀を行った。征夷大将軍徳川吉宗に婚儀報告をするため、同年728日に江戸城に登城して報告を済ませた。その城中にて、松の廊下ですれ違った長府藩世子の毛利師就に対して、唐突に斬りかかった。師就は鞘に入ったままの刀で応戦し、忠恒の刀を打ち落とした。忠恒は近くにいた大垣新田藩主の戸田氏房により取り押さえられ、目付の長田元鄰が反撃せんとする師就を押しとどめた。

忠恒は自身に不行跡が多く、家臣に人気が無いため、自分の領地が取り上げられて師就に与えられることになると思ったので切りつけた、と供述したが、実際には幕府側にそのような転封予定の事実は無く、乱心したとされた忠恒はその罪で改易となり、川越藩の秋元喬房の下に預けられた後、叔父の水野忠穀の江戸浜町の屋敷に移されて蟄居させられ、そのまま同屋敷で没した。享年39

分家の若年寄水野忠定の取り成しにより、同年827日、叔父の忠穀に信濃国佐久郡7000石(高野町知行所)が与えられて家名は存続し、忠穀の嫡男忠友の代に大名に返り咲いている。また同時に、4代藩主水野忠周の弟忠照に対し、佐久郡2000石(根々井知行所)が与えられている。



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