沼津人の“聖地” 匂坂信吾
十月三日掲載の沼津朝日記事には『大手町の中央公園は多くのスケートボーダーでにぎわう「スケートボードの聖地」(中略。スケートボーダー達は、公園再整備で)スケートボードの専用施設を設置するよう希望している』とありました。
中央公園は、郷土を愛する沼津人にとって共通の“聖地”にほかなりません。
沼津観光ボランティアガイドは、市民や観光客のために中央公園を拠点に市街地の歴史案内をしており、重要な聖地との認識です。中央公園をマラソン大会等の発着点にしたり、公園で開催される各種イベントに関係する人たち、公園で日常的に散策やスポーツを楽しむ人たちにとっても大切な聖地でしょう。
沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)にとっては、この公園は狩野川を外敵防御の外堀に見立てて築城された三枚橋城、沼津城の本丸があった場所で、沼津を象徴する重要な史跡であり、聖地そのものと考えます。
江戸時代は、中央公園の旧国道一号を挟んだ北側に天守台の三重櫓が、園内東側に二重櫓があり、街道を行き交う旅人も城を望むことができたと思われます。
明治元年には德川家が静岡に移って沼津藩は上総国菊間に転封となり、沼津城内にあった二の丸御殿は、德川家・静岡藩が設置した沼津兵学校の校舎となりました。
ここでは全国から集まった生徒が外国語や数学、測量や地図製作など当時最先端の学問に取組み、日本初の体操の授業や狩野川での水練にも励みました。
本丸跡の中央公園には寄宿寮が設置され、多くの生徒が集団生活を送りました。
同校出身者は明治九年に東京で同窓会「沼津旧友会」を設立、永く親睦や交流を続けました。平成三十一年一月、沼津で開催した同校創立百五十周年記念式典には、全国から子孫が約八十人参加し、改めて世代を超えた交流が始まりました。
兵学校が東京に移転した後、城や寮の建物は県によって競売・撤去されましたが、本丸の一部は様々な紆余曲折の結果、幸い昭和四十年代に中央公園となって保存され、今日に至っております。
観光ボランティアガイドの皆さんは、中央公園での案内や説明の最中にもスケートボードを楽しむ若者が騒音や大声を出し支障があるなど、解決策の必要性を訴えています。地元自治会でも中央公園周辺にお住いの方々が、同様に不安や迷惑を感じているとのことです。心静かに過ごしたい一般の公園利用者からは、精神的に苦痛という声が聞かれます。
そうした状況の中で、このままでは公園を訪れる人たちとスケートボーダーとの間でのトラブルや、不測の接触事故等が発生する危険がないとは言えません。
公園管理者である沼津市においては、中央公園再整備に向けての調整と共に、関係者や近隣住民の合意形成に努められるよう期待します。
(沼津史談会会長 小諏訪)
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