2017年5月27日土曜日

東海道の街道と宿場の変遷(中世・近世沼津地区)

平成29年5月25日(木)午後6時30分
沼津ユネスコ協会29年度総会特別講話 当日資料







 沼津宿の歴史テーマに講話
ユネスコ協総会
沼津ユネスコ協会(原博男会長)は25日夜、沼津市内で総会を開いた。沼津郷土史研究談話会の長谷川徹調査研究主幹が記念講話を行った。
長谷川さんは「東海道の街道と宿場の変遷」と題し、地図や古文書を見せながら沼津宿の歴史をたどった。沼津宿が東海道の宿場町として栄えた要因を「箱根峠への道と足柄峠への道の分岐点で交通の要衝だったため」と説明。江戸時代に参勤交代が確立したことを機に「宿泊施設や飲食店が増え、商業都市として発展する基礎となった」と分析した。
【静新平成29年5月27日(土)朝刊】
↓沼朝記事スライド資料

 沼津史談会の長谷川さんが記念講話
 沼津ユネスコ協会総会で宿場の変遷など取り上げ
 沼津ユネスコ協会(原博男会長)は二十五日、一般にも公開して総会特別記念講話をホテル沼津キャッスルで行った。
 沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)調査研究主幹で上本通り商店街振興組合理事の長谷川徹さんが「東海道の街道と宿場の変遷(近世沼津地区)」と題して話した。
 長谷川さんは「沼津には宿が三つあった」として、中世の沼津には木(黄)瀬川、車返(くるまがえし)という宿場町があり、このうち木瀬川宿は大きな宿場町で、当時は、まだ沼津宿はなかったことを説明。源頼朝も木瀬川宿を度々訪れて宴会を開いていたことを話した。
 長谷川さんは「当時、沼津地区で一番ステータスのあった地域が木瀬川宿。古代には現在よりも北、長泉町本宿の辺りにあり、交通の要所だった」とした。
 その後、長泉町本宿辺りの宿場町がすたれて現在の木瀬川辺りに移動。頼朝の時代には現在の木瀬川地域が発展していて、後にいうような芸者も多くいたことが想定されるという。
 一方、車返は今の三枚橋町辺りにあり、頼朝の正室ではない女性が住んでいたという。
 河川の黄瀬川は長い年月の間に流れを変えていて、数万年前は浮島の方に流れていた。これが徐々に東側に移ってきて現在の場所になったもので、「沼津は黄瀬川の扇状地だった」とした。
 街道に関しては、古代の役所が置かれていた場所をつなぐ官道が現在の東海道より、だいぶ北側を通っていたことや、古代に関東地方と県東部をつなぐ道が御殿場方面に回る足柄路だけだったのが、富士山が八〇二年に噴火したことにより足柄路が通行止めになって以降、筥荷(はこに=箱根)路が開かれ、二路を併用する形になったことを説明した。
 鎌倉幕府は、お参りの対象である神社を三島明神、箱根権現、伊豆山権現の三つとしていたことから、箱根越えが頻繁に行われるようになり、これが箱根街道の発達した理由だという。
 中世以降は木瀬川宿が徐々に衰退していき車返と一体化した後、新たに出来た沼津宿が立派になっていき、車返と一体となって沼津宿だけが知られるようになったことを話した。
【沼朝平成29年5月31日(水)号】

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