金岡地区センター
講師:西川修一先生
「ヤマタイ国時代の列島東部」ー古墳時代の始まりと沼津市高尾山古墳ー
当日配布資料
ヤマタイ国時代の列島東部講演会当日資料 from 徹 長谷川
遺跡など保存の必要性
調査技術の進歩で徐々に高まり
金岡・東熊堂の高尾山古墳の保存を要望してきた市民団体「高尾山古墳を守る会(杉山治孝会長)」は五日、古墳学習会を金岡地区センターで開き、県外からの人を含む約六十人が参加。日本考古学会会員の西川修一氏が「ヤマタイ国時代の列島東部ー古墳時代の始まりと沼津市高尾山古墳ー」と題して話した。
西川氏は神奈川県立高校の教員。同県教委で遺跡調査や文化財保護行政に従事した経歴を持つ。
はじめに西川氏は、丹後地方(京都府北部)で発掘された弥生時代後期のガラス製腕輪を紹介。こうしたガラス製の装身具は東日本各地で発見されているものの、大和盆地(奈良県)では見つかっていないことに触れ、大和地方を中心とした勢力とは異なる勢力圏が東日本には広がっていて、丹後を通して海外と交易していた可能性があることについて解説。
その上で、沼津の地を含む東日本一帯は大和地方の影響を受けて徐々に発展していったのではなく、地方で独自の発展を遂げていったという学説について話した。
また、西川氏は遺跡保存の意義について触れ、新田次郎の小説『霧の子孫たち』を紹介した。この小説では長野県の霧ケ峰高原で起きた自然保護のための道路建設反対運動が取り上げられている。
当時、長野県庁は道路建設を進める側だったが、現在は県庁のホームページで、この小説を県内における環境保護活動の先進事例として好意的に取り扱っているという。
この例を挙げながら、何を重視するかという世間の価値観は時間とともに変わってしまうものであり、時間を超えて生き残る価値とは何かを考えることが重要であると指摘した。
さらに、学問における価値観の変化の例として弥生時代への評価に言及。昭和二十年代の頃、農村遺跡である登呂遺跡の発見もあり、弥生時代は平和な時代だったという見方が定着したが、一九九〇年以降になると、多くの戦乱があった時代と考えられるようになったという。
西川氏は、こうした変化の陰には、平和を求める声が強かった終戦直後の世相と、冷戦終結後の新たな国際緊張時代の世相とが深く関係しているとの考えを示した。
そして、近年の考古学調査技術の向上についても話し、かつては捨てられていたような土器片からも重要な情報が発見されるようになっており、遺跡や出土品の保存の重要性は日に日に高まっていると強調した。
【沼朝平成29年2月7日(火)号】
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