2013年11月27日水曜日

産業遺産を歩く:平成25年11月27日(水)靜新記事より

 琵琶湖疏水 京都市・大津市
 産業遺産を歩く
 地域主導の大土木事業

 琵琶湖クルーズの観光船が滋賀県・大津港を出港すると、まもなく左側に水路がチラリと見える。琵琶湖疏水(そすい)だ。古くは舟運などで産業を支え、今は京都市民約147万人の「上水道の99%を担う『命の水』」(水田雅博・京都市上下水道局長)が流れる。
 疏水は、大津市から京都市伏見区に至るまで、周囲の景観にすっかり溶け込み、沿線は紅葉や桜、四季折々の花が咲き誇る。疏水沿いで育った、JR東海初代社長で現相談役の須田寛(82)は「帰郷のたびに疏水の流れを見るのが楽しみ」と話す。
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 疏水の開削は、明治の東京遷都に伴い、10万単位で人口が激減した京都再生のため、殖産振興の切り札となった。多くの先人が開削を夢見たが、実行したのは3代目京都府知事・北垣国道だ。工部大学校(東京大工学部の前身)を卒業した当時21歳の田辺朔郎(1861~1944年)を主任技師に起用し、4年余の難工事の末、1890(明治23)年、大津-蹴上(けあげ)(東山区)間が完成。以来123年、疏水は京都を潤し続ける。
 大津市小関ー藤尾間を結ぶ約2・4㌔のトンネルは、当時日本最長だった柳ケ瀬・鉄道トンネル(滋賀・福井県境)の記録を塗り替えた。日本初の鉄筋コンクリート橋(山科区)も設計した田辺は、開削終盤に渡米し、世界初の水力発電所を視察。水車計画を変更し日本初の水力発電所を蹴上に建設し、その電力は日本初の路面電車を京都市内に走らせた。
 世界を驚かせたのは、外国人技師頼りだった大土木事業を日本人の手で成し遂げたことだ。国内的にも、国営ではなく、大半が地域主導での壮挙だった。
 「琵琶湖疏水はリニア新幹線に匹敵する偉業」と指摘するのは、「国土強靱(きうじん)化」を提唱し、昨年末の安倍晋三内閣発足時に内閣官房参与となった藤井聡京都大教授(45)=都市社会工学専攻=だ。疏水事業で培った京都の進取の気性は、西陣はじめ伝統産業を勇気づけ、その後の京都発のベンチャー企業群誕生に弾みをつけた。
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 大津と京都、大阪を結ぶ舟を曳くために設け、形態保存されるインクライン(傾斜軌道)など琵琶湖疏水の12カ所は1996(平成8)年、文化遺産として国の史跡に指定、6年前には近代化産業遺産群にも認定された。今なお現役の疏水について、伏見区生まれで土木学会元会長の中村英夫東大名誉教授(77)は「運輸、製造、潅漑(かんがい)、防火…と、多目的運河だったことが大きい」と説く。
 田辺はその後も北海道の鉄道敷設に尽力し、京都帝国大教授などを務め、関門海底トンネル建設も提言。現場第一の人であった。
 田辺の銅像は、蹴上広場から市街を優しく見守っているようだ。鴨川の東を南北に貫く川端通に架かる疏水の橋には名が残る。ひっそり目立たない「田辺橋」と「田辺小橋」。橋から東山を仰ぎ、直線で8㌔ほど先にある琵琶湖に向けて歩を進めると、開削に懸けた先人の気概を感じ、心地いい。
京都新聞社 文・河内量
《靜新平成25年11月27日(水)近代の礎》

メモ
 冷泉通川端西入ルの鴨川合流点一伏見区(通称・鴨川運河)を含めた第1疏水の全長約20㌔、大津一蹴上間のほぼ全線がトンネルで、1912年完成の第2疏水の全長約7.4㌔、蹴上から北へ全長約3.3㌔の疏水分線などで構成する。水は平安神宮など大小庭園にも流れる。第1期の開削工費125万円は、現在価値で約1兆円。湖からの1日平均流量は10トントラックで17万2000台分。国は、1996年、インクラインや南禅寺・水路閣、各トンネル出口洞門など関連12カ所を史跡に指定した。2007年には経産省が蹴上の浄水場や発電所などを加えて近代化産業遺産群に認定。琵琶湖疏水記念館
<電075(752)2530>。


参考(代戯館HPより)
田辺朔郎と沼津のご縁
田辺朔朗(沼津兵学校附属小学校卒)
博士少年時の敏育・沼津小學校に入る

博士は家運の傾ける甚しき間、即ち十一歳まで沼津の小學校に通うて居た。それは前将軍慶喜の静岡に移さるるを同時に奮幕臣は一様に濱松静岡沼津に配分して居住を許され。叔父太一氏は沼津の兵學校に教務を執り、從って田邊一族は氏に伴はれて再び東京を離れ、其の地に移住して居た關係からである。而して明治四年に至り太一氏は新政府に用ひられて、外務省に任官したので、博士の家もまた翌五年に東京に転じた。當時の子弟敢育の機關は、英漢数の學を箇々別々に授ける私塾のみであつた故に博士は東京移転後、湯島天神下なる共慣義塾に入ってその授業を受けることとなった。


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