2012年2月21日火曜日

長浜城跡の整備が進展







 長浜城跡の整備が進展
 家屋跡や見学路に城らしさ演出
 今後植栽管理や崩落防止策
 当時の軍船平面展示の計画も


 内浦長浜と重須の間で内浦湾に半島状に突き出た小山にある国指定史跡、長浜城跡の整備事業が進んでいる。城跡本体の構造物整備は年度内に終了。新年度からは環境整備などに移る。
 長浜城は、小田原を本拠とする戦国大名、北条氏(後北条氏)の城として戦国時代の後期、天正七年(一五七九)から同十八年(一五九〇)にかけて存在していたと見られている。
 北条氏の水軍拠点であった内浦重須の港を守備する役割を担い、甲斐(山梨県)の武田氏が駿河を支配して北条氏と対立すると、同城は武田軍に対する最前線の城の一つとなった。
 根古屋の興国寺城が、北条氏が戦国大名としての地位を確立するきっかけとなった城なら、長浜城は、豊臣秀吉の小田原攻めによって滅びた北条氏と運命を共にした城。いわば北条氏五代百年の勃興と終焉にまつわる城が沼津にあったことになる。長浜城跡は昭和六十三年、国史跡に指定され、平成十四年には周辺部が追加指定された。
 市では、平成二十年度から五力年計画で史跡公園として同城跡整備を進め、これまでに城や北条氏の歴史を説明する展示コーナーを設け、二十一年度工事で見学者用公衆トイレを設置したのに続き、二十二、二十三年度で、城跡本体や見学路の整備を実施。
 城本体の整備では、家屋の柱跡が発見された場所に低い柱を建て、かつての建物の位置を見学者が視覚的に理解できるようにした。また、中世の城の櫓(やぐら)を模した櫓式階段を高低差のある場所に設置。城跡らしい雰囲気を演出している。このほか、城域一帯を巡る手すりつき見学路を整備した。
 二十四年度以降は、環境整備に重点が置かれ、城跡に茂る木々などの植栽管理や、斜面崩落防止のための補強工事などが続けられる。見学者向けの説明板の設置も行われるほか、戦国時代に使用された軍船である安宅船(あたけぶね=大型船)や、小早(こはや=小型の快速船)の大きさを体感できる平面展示を城の麓に施す予定。これは軍船の木製甲板を実物大で模したものになる。
 今回の整備事業では、城跡からの見晴らしを重視しているのが特徴の一つで、展望の妨げとなる樹木を撤去した。これは大風などによる倒木で整備済み個所が損壊するのを防ぐ安全策にもなっている。
 現在、城の最高地点である第一曲輪(くるわ)から北の方角を眺めると、右手に淡島、左手に長井崎が見える。その中央の海を越えた向こうには、沼津市街と天候に恵まれれば富士山を望むことができる。
 その沼津市街には東京電力沼津営業センターの紅白の鉄塔が見えるが、その一帯は、かつて三枚橋城が位置した場所に当たる。長浜城は武田氏の拠点である三枚橋城に対抗するために築城されており、第一曲輪からの眺めは、まさに武田軍の動きを監視するためのもの。この眺めを通して見学者は当時の長浜城の戦略的価値を実感することができそうだ。
 整備事業の総予算は約八億五千万円。このうち五〇%が国の補助。また約百六十七万円が県から補助される。
(沼朝平成24年2月21日号)

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