2019年12月9日月曜日

沼津の水道の歴史資料


沼津の水道の歴史資料


「海軍の遺産・沼津水源地」
  著:今井 三好 
昭和54年発刊
「沼津技研物語」より

昭和十六年四月といえば大平洋戦争ぼっ発の直前であった。
 当時東京恵比寿の海軍技術研究所では、沼津へ音響研究部を移すことは既に決まっていて、電気研究部四科の(航空無線研究室)宮沢技術大佐と私は音響研究部に出向を命ぜられ、先発として私は単身沼津に着任いたしました。着任早々沼津市長名取栄一さん宅を訪れ一緒に市議会を訪門して海軍が沼津に研究所を新設することについて議会の協力を要請しました。
音響研究部の施設は全部水陸施設班が担当したが、その概要を述べると次のようなものであった。沼津市下香貫の本部の施設としてはエレベーター付の本部、直経一〇米の回流水槽、長さ一〇〇米巾一〇米の矩形水槽、空中実験用の防音室、回流水槽については沖電気品川工場の小林勝一郎技師長の実地指導を受け、防音室のグラスウールは日本ビクター工場の御世話になりました。特に第三研究室は古河電線が開発したアルミニューム電線で施工し東洋一と称せられた。
臨海実験場としては、牛臥、江ノ浦、淡島、長井崎、大瀬崎等があり、特に江ノ浦基地には二五〇トン、順幸丸、小型潜水艇(農林省所属)等がありましたが、突堤は海が深いため一メートル四角のブロックを積上げて三〇米長さのものを造りました。多比には伊豆石を切り開いた約三〇〇〇坪の大地下壕があり、空襲を避けて作業工場をここに移しました。変電所の受電は、山地のため苦労いたし工作機械等は道板を使って引込みました。蝙蝠が沢山いた地下工場でした。
 戦争末期、本土の空襲も次第に激しくなって来たので、研究所の疎開も真剣に考えなくてはならなくなり佃業務主任の命を受けて竹見技大尉と私が日本海側を探しに探して最終的に決まったのが石川県の穴水でした。そこでは、町役場警察署北陸配電等と交渉した結果歓迎して受け入れてくれることになりました。
扨(さ)て沼津に着任したところ日に話を戻そう。
 後日聞いたところによると、音響研究部の沼津での最初の候補地は柿田原であったと云う。ところがこの広漠たる土地に農家が一軒もないのは不思議だと思って調べたところ、なる程ここは富士颪(おろし)をまともに受けて吹きさらしだということで、予定を変更して香貫に決めたわけであったが、大切な水源についてはまことに迂濶(うかつ)であった。それと云うのも、千本から香貫へかけても所々自然湧水が出ている位だから、この一帯で井戸を掘れば水に困るなどということはあるわけがないと思い込んでいた。ところがいよいよ土地を確定してさてボーリングを三ヶ所もやって見たが、全然予想外れで水が出ない。そこで大慌てで水源探しが始まったというわけである。そこへ私が着任した。
 ちょうど其の頃、東京水道局はこの地方の水源から水をとって箱根越えで東京迄水を引く計画があるのを知って、水道局を訪れ情報を聞こうとしたが海軍に取られては困ると考えてか詳細には教えて貰えず、やむなく自力で現地を調べることになり、沼津駅から徒歩で半日も歩いて現在の沼津市水源池である柿田川湧水にたどりつきました。それまで写真伝送や伊豆大島でラジオビーコンの送信所の建設をしていて、水に悩まされ続けていた私を驚かせたのは、一日の水量が何と一二〇万トンという清らかな水が渾々と湧き出していることであった。
 早速この豊富な水を利用することに決まり、艦政本部ではすぐ予算をつけてくれたが、同時に地元の利害をも考え市と相談し、経費節減の意味からも半額を出して貰って市にも水をやるようにとの事であった。早速、名取沼津市長に其の旨申上げて議会に上程したが、急なことでもあり市財政の赤字を理由に断って来たので止を得ず海軍だけでつくる事になった。
 水源地は静岡県駿東郡清水村八幡泉で清水製紙焼跡一帯がえらばれた。工事は横須賀海軍施設部が直営で、私はオーナー格で指揮に当っていた。工事の中途で、韮山の江川代官がつくったという用水取水口が出て来た。当時ここから田方平野に水を引いていたと思われる代官の偉大さと遠大さにうたれました。
 工事については狩野川の底を通す送水管の前例が我が国にはないので、技研の文献室にドイツの文献を取り寄せて貰い、ライン川の川底の事例を頼りに川底工事に成功いたしました。送水管の径一二〇ミリのものであった。こうして川底を渡した水をいったん高台の五〇〇トン入り貯水池にポンプアップして、最高時で一五〇〇人もいた技研の人達の生活用水と、研究用プールの使用にあてた。その外の水源地としては江の浦の基地用と多比の工場用をつくりました。
 その頃沼津海軍工廠が出来ることになって、東京市水道局から嘱託として海軍工廠に猿渡さんが来られ、私に協力を求められましたので音響研究部の工事の忙しい中を許可を得て香貫山中腹海抜五〇米のところに配水池を建造した(送水管径五〇〇ミリ)。工事はカンテラを吊して素掘工事であった。現在の市水道の水瓶である(現在貯水池を香貫山の中腹に貯えてポンプアップして大容量の準備が出来ている)当時は海軍工廠に引く迄には至らなかったが貯水池は完成していた。
終戦直後沼津市としてもこの水道を移管して貰い度いとの事で芝辻一郎沼津市長から混乱のさなか市産業課長青木昇平(県会議員)さんを随行させるからという事で横須賀海軍施設本部の焼津の疎開先又横須賀の鎮守府にと懸命に廻り管財局に仮移管を御願した。そのことは沼津市水道事業の沿革の一節に沼津市が旧海軍から水道の移管を受けた当時の経緯が記されている。今にして思えば、沼津市の皆さんは生れながらにして良い水に恵まれ、どこを掘っても豊富に水が出ていたので、何も高い施設費を払って水道をつくることはないという一般的な考えがあって、当時赤字財政を理由に水道投資の辞退を申出たのでしょうが、それにしても朝に晩にこの水を飲むことが出来る市民は幸である。
現在二〇万人口で八五パーセントが日量一〇万トンのこの水でうるおって居り、水道料金も全国一安いといわれている。

(一)清水村八幡に水を洩らす話
或る日、八幡の代表数名の方が見えて地元の私達に海軍の水を分けて貰い度いとの要求がありました。地元という事で上司に報告したところ、公然と水を分けてやる事は出来ないが、洩れる分には致し方なかろうという事で、私は地元に水を洩らすことになり、これが現在の清水町に水が行くことになった元だと思います。
(二)熱海に水道を
昭和四〇年の春、突然、熱海の市議三枝敏三郎さん(元技研作業班事務)が青木館社長青木弘光市議を伴って水道について話を聞き度いという事で見えました。熱海に水が少いので泉の水を引き度いと云うのです。当時熱海では日量五万トンで不足という事で、恰も当時熱函道路の計画が出ていたのでその道路の下に水路をつくり度いとのことでした。
機会ある毎に三人で夢のような話をして居りましたが、昭和四五年頃、熱海市川市長当時、用地買収が始まり翌年着工、五〇年一部給水が始まりました。その間県の工事所長が漆畑八三さんで芝浦工大の後輩に当たるところから先輩の後を自分が引継いだと所長はよろこんで、種々の話合をいたしました。現在市水源地の隣家に深沢姫鱒養殖をしていた用地を買収して(自噴している)日量一〇万トンを熱海六、三島三、函南一、と分けるようになり熱函道路の下を通って居ります。
(三)泉水源地とは
富士山の東南麓一帯に降った雨や雪どけ水などが地下水となって、富士山の溶岩の空隙を通りこの附近一帯に湧出しています。泉水源地は日本最大の湧出量を誇る柿田川湧水日量一二〇万トンの一部であり、現に空タンカーで中近東へも水を運ぶことが話題になっている所以であります。
終わり



【昭和4561日沼朝記事】

戦争の落し子 沼津の水道
生みの親、今井さん
 昭和十六年四月といえば太平洋戦争ぼっ発の直前で日本の陸海軍は日夜戦争への準備に大わらわであったのだが、当時東京の恵比寿駅近くにあった海軍技術研究所が手狭となったことから沼津へ音波や電波の研究部門を移すことになり、今井三好海軍技手は宮沢海軍大佐(着任時に少将となった)について沼津へ出向くことを命ぜられたのであった。
 技研は艦政本部のもとにあった部門で、海軍が新らしく施設をつくるときは①本拠地を早く探すこと②水源地を確保すること③道路を整備すること、の三つが絶対条件であったので、陸上施設になぜ水源が絶対条件なのかなと思いながらも命令だから今井さんは引きうけたのである。
 註=日本海軍の音波、電波研究は非常にすぐれ世界一といわれたが、残念ながら生産の段階で間に合わず実戦に間に合わなかったものも多いという。
ちようどその頃、当時の東京市当局は、この地方の水源から水をとって箱根こえで東京まで水をひく計画があることを知って水道局を訪れたが、海軍にとられては困ると考えてか、詳細には教えてもらえず、やむなく現地をしらべることになって、沼津駅から徒歩で半日も歩いて、いまの沼津市上水道第一水源地である柿田川湧水にたどりついたという。それまで伊豆大島で、ラジオビーコンの仕事をしいて水になやまされていた今井さんを驚かせたのは一日二百万㌧(当時そういわれていた)もの清らかな水が、こつ然として湧きだしていることであった。
 今井さんから、この豊富な湧水を利用したいとの報告をうけた艦政本部では、すぐさま予算をつけてくれたが、同時に、地元の利害をもつ市町村と相談し、半額をだしてもらってその市町村へも水をやるようにとの指示があった。
 当時の沼津市長は名取栄一さん、庶務課長が山本広さん(後の助役)であったが、市財政が赤字で貴意にそいかねるとの市議会の決議書を、赤字を説明する資料数冊といっしょに今井さんのところへもってきたので、やむをえず海軍だけでつくることになったわけである。
 水源地は清水製紙の焼跡近くがえらばれたが、工事の中途で韮山の江川代官がつくった用水掘取入口のあるのを知り、江川代官の偉大さと遠大さにうたれたという。
工事といっても、当時の日本には河を渡す送水管の前例がなかったので、ドイツからとりよせた文献を頼りに、狩野川の底を通す難工事を成功させたのだが、そのときの送水管は百二十㍉経のものであった。こうして川を渡した水を一たん高台の貯水池(五百トン入り)に入れて最高時で千五百人もいた技研の人たちの生活用水と研究用プール(木ノ宮地先)の使用にあてた。
 そのうちに海軍工廠が沼津へできることになって水が不足することになるので現在残っている香貫山のトンネル式配水池を建造したのだが、この送水管は五百㍉級のものであった。
 この配水池が完成して間もなく終戦を迎えたのだが折角つくったものを米軍に渡すことはないから爆破すべぎだとの意見が技研部内に強かったが、当時市の産業課長であった青木昇平さん(いまの県議)といっしょに今井さんは懸命に施設本部などを説いて回り、やつとのことで無事に、しかも無償で沼津市に引言渡す,ことができたのである。
今井さんは「いまにして思えば、沼津市のみなさんは生れながらにして良い水に恵まれ、どこを掘っても豊富に水がでていたので、何も高い金をだしてまで水道をつくることはないという一般的な考えがあって、赤字財政が水道投資の辞退を決定づけたのでしょうがそれにしても今日、私が努力した水道の水を、朝に晩に飲むことができるということで、報われたという気持ちです」といっている。
 そんなわけで、沼津市の上水道と今井さんの関係は密接なものがあり、いままで何回も感謝状でもやりたいというような非公式な話はあっても、一度も実現していないのに「いまさら何も……」と笑っている。
(今井さんはいまアーケード名店街で富士電業を経営している)
 
「沼津の空襲と戦跡」展
20
日までパレットで
 昭和二十年の、きょう七月十七日は沼津が大空襲に見舞われた日。これを忘れないようにと、県による「沼津の空襲と戦跡」展が二十日まで、沼津駅南口前のパレット一階ギャラリーぷらざで開かれている。
 沼津市は同年一月から八月にかけ延べ八回の空襲を受けたが、その中で、最も規模の大きかったのが七月十七日。
 この日だけで二百七十四人の死者を出し、九千五百戸余りを焼失。市街地面積の八九・五%が破壊された。これは富山市に次いで全国でも二番目に高い焼夷率だという。
 会場では、被害の様子を写真パネルで紹介。
 沼津海軍工廠や沼津の海軍特攻部隊の基地、海軍技術研究科の電気五科をルーツに設立され「沼津の技研」と呼ばれた沼津音響研究部(本部・下香貫)などが取り上げられ、分かりやすく解説した資料が並んでいる。
 東椎路の男性(81)は、「(沼津大空襲があった)

当時は、音響研究部の寮にいて、周囲は一面が火の海となったが、仲間と敷地内の消火にあたったものだった」と資料を目にしながら振り返っていた。
 開場時間は午前十時から午後五時。
 問い合わせは県東部パレット市民活動ネットワーク(電話九五一ー八五〇〇)
(沼朝平成20717()号)


 
海軍技研址(ぎけんし)の碑 (下香貫木の宮)
海軍技術研究所とは、大正12(1923)に東京に設立された海軍の兵器開発・研究機関です。
沼津に設置されたのは同研究所の中の音響研究部という部門で、昭和16(1941)11月のことでした。
場所は下香貫で、現在の第三中学校とその周辺地域約82,000坪が敷地でした。
この中に研究所・工員宿舎・実験用水槽・作業場・倉庫などが配置されました。
これ以外に江浦・淡島・大瀬崎・長井崎・多比・下土狩などにも用地・設備を持っていました。

また、実験用の船舶も
10隻以上ありました。
この研究所では、空中・水中聴音機、潜水艦探知機などの開発が行われました。
海軍の武官・文官をはじめ、徴用工員・女子挺身隊を含め多い時で約2,000名の人員が働いていました。
昭和48(1973)には三中前に「海軍技研址」という記念碑が建てられました。当時の遺構として、

三中の北東の山の上に配水槽が残っています。
また近年までレンガ造りの倉庫が残っていましたが、老朽化し危険なため取り壊され、

平成
17年にはその部材を使用して三中の正門東側にモニュメントが作られました。
(平和を考える戦争史跡めぐり:明治史料館)

海軍技研址碑陰刻文
(上段)
太平洋戦争中海軍技術研究所音響研究部は本拠をこの下香貫に基地を江ノ浦淡島牛臥大瀬崎等に置く
 国を愛する若人一千八百各持場に心血を注ぎ 純情の学究南波醇三身を挺して南海の戦場に殉じ 又十七才の
(下段)
少女菊地ひで等七名空爆の犠牲となりてこの処に散華す
往時を偲び記念碑を地元の有志榊原平作氏の好意によりこの地に建つ
昭和四十八年 桜咲く頃 音響会
碧洞 佃定雄撰井書

(平和を考える戦争史跡めぐり:明治史料館)
【平成1416日沼津新聞・日曜特集より】
「柿田の泉」再現を
今こそ先人を見習おう
 
旧海軍の遺産ねらう
競い合った過去の歴史
ここで振り返って柿田川湧水をめぐる歴史的な動きを見ると、今から半世紀以上も昔、東京都がこの地からはるばる東京まで送水する構想を打ち上げたが、それが実現される前に海軍が目をつけ今は亡き今井三好氏(のちのイマイ電機社長)らを派遣し調査に乗り出した。この結果、香貫山北斜面にトンネル型貯水池を作って海軍の諸施設へ送水したのだが間もなく終戦となり、柿田川水源は一旦国有地となったところで、その権利をめぐって、元の所有者の京都の西川孝太郎氏をめぐって清水村(当時)と競願いとなった。
当時の沼津市は戦災直後とあって財政にゆとりがないことを知っている当時の市議会議長、塩谷六太郎氏が二十万円を都合して、辛うじて先手が打てて沼津市のものになったいきさつがある。
このような先人の努力で勝ち得た水源だが、実際に上水道に使っている水の量は、湧水量の一割程度で残りは狩野川への流れに任せている状態である。
従って、その一部を商品化することは、今日の緊迫した財政事情の下では、その努力によっては充分可能なはずだと言うのが「柿田の泉」再現論の骨子なのだが、市当局は、どう受け止あるのだろうか。


旧三津坂隧道関連資料


旧三津坂隧道関連資料↓



旧三津坂隧道掃除ボランチア活動前の隧道入り口風景↓

2019年12月3日火曜日

岳南鉄道




 岳南鉄道
 静岡県内最多の鉄道計画案
 
 明治二十二年(一八八九)二月一日東海道鉄道国府津・静岡間が開通し、鈴川停車場(現吉原)も同時に開業した。かつて、東海道吉原宿として栄えた吉原町の町並みから鈴川停車場までは、はるか四キロの距離を隔てていた。明治四十二年四月二十一日東海道本線富士駅が開業し、その後富士身延鉄道と接続し、周辺の加島村はじめ岩松村・田子浦などは「文明への入口」として恩恵に浴したが、吉原町は疎外されていた。吉原町は鉄道のない街として近隣の伝法村・今泉村また根方方面の村々も、経済的・文化的、また時代的にも随分辛抱を強いられてきていたのである。
 太平洋戦争後、地元から岳南工業地域へ貨物と工場労働者を輸送したいという強い要望が起こった。敗戦の厳しい現実から復興への新しい希望に燃え立たせるには、まず交通問題の解決が課題となった。これは吉原町住民と製紙業界関係者の長年の切なる願いでもあった。しかし、吉原町にこれまで鉄道敷設の計画がなかったわけではない。むしろ吉原地域には県内最多の鉄道計画があったといって過言でないくらいである。

 大正六年(一九一七)、沼津を中心とした地元の人たちによって駿富鉄道株式会社が創立されている。沼津を起点として吉原を経て大宮(現富士宮市)に至る二二キロの鉄道計画で、敷設免許を得て工事に着手したが、大正七、八年の経済不況で解散した。大正七年には富士馬車鉄道の一部を譲り受けて吉原町.須津村間の根方街道の道路上に、根方軌道を敷設する動きがあったが、これも実現されていない。昭和二年(一九二七)沼津と吉原の有力者らが駿富電気鉄道株式会社を設立した。計画路線は、沼津から愛鷹山南側の根方街道を経て下和田・伝法.鷹岡村(富士製紙第一工場が所在)に至る鉄道で、関係町村では積極的な姿勢を示したが経済恐慌の最中で資金難から実現できなかったものと見られる。
 吉原町依田原にある東京入絹吉原工場が、昭和八年鈴川駅から工場までの二・三キロに会社専用の鉄道を敷設した。このとき、井出儀作吉原町長は用地買収やその他建設のために積極的に支援したという。これは住民の要望を考慮した将来への布石だったのであろう。昭和十八年に駿豆鉄道(現伊豆箱根鉄道)が沼津・吉原間の計画を行ったが、太平洋戦争の激化によりこれも中止となっていた。

 戦後吉原町に鉄道敷設機運
 戦後の混乱の最中、駿豆鉄道では再び戦前の鉄道計画を実現させようとして準備を進めていた。昭和二十一年十月十六日、鉄道布設免許申請書を運輸大臣平塚常次郎宛てに提出した。昭和十八年の計画を一部変更し、吉原町から沼津市静浦に至る二二・二キロで、建設費三五〇万円、目的は平和日本建設の一助に地方産業開発のためであった。
 吉原町には戦後「郷土に鉄道の実現を」のスローガンが掲げられ、交通協議会が設立され、鉄道敷設への強力な運動が展開されていた。それは戦後のたくましい息吹とともに、戦争中の苦難に満ちた交通対策をくぐり抜け、幾多の実現未遂に終わった時代に対する苦い経過があったからである。吉原町では駿豆鉄道の鉄道計画を歓迎した。しかし、計画案では沼津市から根方街道に沿って西進し、吉原町を経て鷹岡町入山瀬で国鉄身延線と接続しようとしている。これでは吉原町は通過地点に過ぎない。そこで国鉄鈴川駅から日産吉原工場(旧東京人絹吉原工場)までの二.三キロの引込線をそのまま利用して、同工場の裏から西方へ迂回して今泉木綿島地区の停車場予定地(現吉厚駅)までの区間を第一期工事とする修正案を立てた。
 駿豆鉄道側は日産工場の諒解が得られれば異存はないということであった。吉原町当局は、早速日産工場に対し引込線の譲渡か共同利用か交渉した結果、その敷設区間を賃借することとなった。

 駿豆鉄道が出願して積極的支援
 駿豆鉄道では吉原案を採用して既定計画案の変更認可申請を行い、関係機関に陳情する一方根方各村に対しての働きかけを進めた。原田村・吉水村・須津村・鷹岡町とも、吉原町同様に要望しているところで、第二期工事で須津村まで延長されれば全面的に協力を惜しまないということであった。
 岳南鉄道期成同盟会が昭和二十二年六月三日吉原町役場にて開かれ、同盟会長に房間熊吉吉原町長、実行委員には関係町村長・議員・実業家ら五一名が選ばれた。その後、房間会長は都合で辞任したため、後任に吉原商工会副会頭斎藤徳次、実行委員長に中井芳太郎吉原町助役が選ばれ、実行委員に四名が追加され陣容が強化された。
同盟会趣意書には「現状では産業の発展も文化の向上も到底不可能である。総力を結集して一日も早く会社側の大構想を実現させ、郷土の発展・民衆の福利を増進したい。交通難を解消し、南北の産業文化の交流円滑ならしめ、郷土の飛躍的発展を期する」とあり、その意気込みを示した。
翌二十三年二月十八日鈴川・吉原・原田・富士岡に至る六キロの敷設免許が下付され、待望の鉄道建設が実現に向けて第一歩が踏み出された。この朗報に地元民は喜び、いよいよ当事者らは株式の募集.会社設立.工事施行認可の申請・用地買収・工事の施工など、山積する問題に本格的に取り組むこととなった。

岳南鉄道創立初代社長斎藤徳次
期成同盟会とは別に岳南鉄道発起人会が駿豆鉄道大場金太郎常務取締役ら一〇名で構成され、資本金四〇〇〇万円、}株五〇円の八〇万株とし、発起人株は二〇〇〇株を引き受けることとなった。株式の割り当ては、地元関係者・有志らが四〇万株、駿豆鉄道株主の応募で四〇万株を消化することに決まり、同年末には六二七人の株主を数えた。
すでに下付されていた本鉄道敷設権は、駿豆鉄道株式会社より岳南鉄道株式会社に対し同年五月一日両社の代表により無償譲渡の契約が締結され、同年六月十一日その旨を運輸大臣宛に申請され、同年十月二十二日その認可が得られた。次に工事施工認可を得るべく駿豆鉄道株式会社の積極的な援助を受け、同年十一月一日工事施工認可申請を運輸大臣に提出した。鈴川・江尾問九〇〇三メートル、総工費九八四一万六八〇〇円、一粁(キロ)当たり一三八一万円となっている。
 昭和二十三年十二月十日、今泉小学校講堂において岳南鉄道株式会社創立総会が開催された。取締役社長に斎藤徳次富士製紙工業社長、専務取締役に大場金太郎駿豆鉄道常務、常務取締役に中井芳太郎吉原市助役、取締役には斎藤知一郎大昭和製紙社長ほか、稲垣直文.坂野碩太郎、大和瀬干浪・木内真雄・小島正治郎・小高義一、監査役に仁藤覚次郎吉原町元助役・鳥羽山康一がそれぞれ就任する。本社事務所は富士南部商工会議所を間借りしてスタートした。
全国に数社あった鉄道申請にさきがけて昭和二十四年六月八日、待望の工事施工認可が下付された。
 同年七月一日、吉原市木綿島六四番地(現吉原駅貨物ホームの位置)で運輸省松下技術課長.鈴木清一吉原市長ら関係者の参列を得て起工式が挙行された。鍬入れ式にのぞんだ会社主脳部の安堵感はどれほどであっただろうか。
 
鈴川・吉原本町 間待望の開通 
 
 昭和二十四年十一月十七日、鈴川・吉原本町問が開通する。用地買収その他で難航し、予定より一ヵ月半遅れていた。軌間一〇六七ミリ、区間二・七キロ。車両は木造の電動客車二、不随客車二の合計四両を西武鉄道・駿豆鉄道から譲り受けて運転した。車両は中古車のうえ、どれも運転操作が違い、運転士や整備工はその扱いに随分苦労した。地元新聞は「多年の夢実現、駅のない町ここに解消、多彩な祝賀行事」などの見出しで祝意を報じた。
 この日、早朝五時五十三分吉原本町発、鈴川行を始発として早くも開業された。午前十時から吉原本町駅前広場において開通式が挙行された。運輸省・通産省・名古屋鉄道管理局の係官、小林武治静岡県知事・沿線市町村首長・施工業者・株主・会社関係者ら多数が参列した。岳南鉄道は単に一企業の鉄道でなく、吉原市の将来構想の-翼をになう観点から周辺自治体と地域の有力企業と沿線住民の支援によって生まれたのである。こみ上げる喜びを抑えて式典
の挨拶に立った斎藤社長の心中に去来したものは何だったであろう。
(「静岡県鉄道興亡史」森信勝著 平成9年12月27日発行より)

2019年12月2日月曜日

幻の駿富電気鉄道株式会社


 駿富電気鉄道株式会社
 (昭和二年・沼津市)
 
 昭和二年(一九二七)沼津市と富士郡吉原町地区の有志が駿富電気鉄道株式会社を設立した。事務所を沼津市三枚橋字惣作一五三番地の一に置き、取締役社長に杉山周蔵が就任する。計画路線は、沼津から根方通りを経て富士郡今泉村下和田付近を通り、富和六所浅間神社の北側の旧大宮街道の近くを北進し、同郡鷹岡村を経て同郡大宮町至る一三マイル四チェーン(約二二キロ)である。
 わずかの記録をたよりにこの計画を追ってみると、昭和二年九月二十六日沼津市において発起人会が開かれたようである。富士郡吉永村役場の同目の日誌に「村長発起人会出席のため沼津へ出張」とある。同日誌にはその後昭和五年八月十三日までの問に幾度かの会合を記し、会社の計画の推進状況が記されている。それによると関係町村はこの鉄道建設について真剣に取り組み、会社理事者と各村当局は打ち合わせ会を重ね、あるいは村議会を開いて設置委員会を結成し土地買収をはじめるなど、関係町村では機を得た事業として賛成であった。
 富士郡伝法村の記録には、和田橋付近に設置する踏切、法寿寺の山門の並木の東側を横切る問題、また旧隔離病舎に対する補償問題などで、会社との交渉が難航していることが記されているが、敷地に反対していることではなかった。さらに同誌の記録によると、昭和五年八月二十一日付の会社より村長遠藤峯太郎宛ての「村内土地立入測量期日の延長」という通知を最後に、駿富電気鉄道株式会社の関係文書は一切見当たらない。
 この鉄道会社の設立理由は、東海地区と甲斐・信濃とを結ぶ広域商業圏をつくることであった。計画には反対者もなく全く順調な進展であったが、計画が挫折してしまう最大の原因は建設資金の調達問題であったと考えられる。当時の日本経済は、大正十二年(一九二三)の関東大震災以来先行きは暗く、昭和二年には金融大恐慌に襲われた。同五年には金解禁によって大不況時代を招来し、農産物の低価格による農業恐慌など、一体どこまで沈むのか皆目見当がつかない深刻な不況に見舞われていたからである。
(「静岡県鉄道興亡史」森信勝著平成9年12月27日発行よりの資料)


※杉山周蔵(初代沼津商工会議所頭取)は沼津駅停車場~三ツ目ガード(この時代建設)を通って根方街道を使い、門池公園(当時テーマパーク構想あり)や富士郡への鉄道を計画した。(※監理者加筆)

杉山周蔵
 1869(明治2)、沼津・三枚橋に生まれる。沼津中学校を卒業。
 1907(明治40)10月、駿東郡会議員当選(1)
1908年、沼津町議会議員に当選(1923年まで就任)
1919(大正8)、静岡県会議員に当選(1)1923(大正12)、沼津市会議員・静岡県会議員に再選。その他多数の公職を歴任。
 また、1903年沼津倉庫株式会社取締役。1908年、沼津銀行取締役、1912年、愛鷹肥料店取締役、1910年沼津町商工会長就任。1917(大正6)、富士煉乳を創立(森永煉乳と合併、解任)1919年、沼津運輸取締役、東京麻糸紡績取締役等々、実業面でも多数の役職を歴任した。
 1928(昭和3)、駿富鉄道株式会社を設立し、沼津駅から現在の学園通りを北上し、根方街道を東西に通る鉄道を計画した。これは、門池周辺を公園とする計画と連携するものであった。この鉄道計画の名残が三つ目ガードである。

 1939(昭和14)、逝去。
↑昭和初期の門池公園の遊覧公園チラシ



2019年12月1日日曜日

牧堰・本宿用水を探索 令和1年12月1日





牧堰門池用水の成立
牧堰の成立
「牧堰」の名が史料において初めて出てくるのは慶長7年(1602)の「まきせき之割」である。この年、大久保忠佐の家臣関久左衛門が、牧堰築堰にあたっての分担間数を書き付け、築堰を命じた。少なくとも、江戸時代初期には「牧堰」が成立していたことがわかる。ただし、この文書で「まきせき」と既に記されていることから、前述したようにそれ以前に「牧堰」と呼ばれる堰が成立していたとも推測できる。
江戸時代の用水施設工事
現在、我々が「堰」といったときにイメージするものはコンクリートなどで作られた恒常的に設置されている堰だが、近代以前の堰はこれとは異なり、毎年灌概用の水が必要な時期に、川に石を積み上げて築いたものである。この江戸時代の用水施設工事の主体は次頁の表のように分類される牧堰の築堰は、やはり毎年灌漑用の水が必要な時期に、川に石を積み上げて築いたもので
川水が掛る各村に分担されていた。上の文書からわかるように、この時期の牧堰は8ケ村(小林・沼津・三枚橋・上石田・木瀬川・中石田・下石田・日吉)で築堰されていた。これが、寛文3年(1663)には13ケ村、元禄の頃(17世紀末頃)には15ケ村の用水となった。
牧堰は、大久保忠左の郡代である関久衛門の命令で、水下の村々に丁場割が割り当てられており、後に述べる本宿村との訴訟において、領主からの丁場割やその後の代官の配符の存在などを提出して、領主による普請であることを主張しているところから、私領御普請か、それに近い御入用普請の形をとって建設したと考えられる。
大久保忠佐
大久保忠佐は三河国の生まれで、徳川家康に仕え数々の合戦で武功をたてた。兄には小田原城主となった忠世、弟には彦左衛門忠教がいた。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの翌年、忠佐は沼津城主になり2万石を領した。忠佐は、開発による田地の拡大と生産の増大に力を入れたと推測される。慶長9年(1604)の妙伝寺宛の寺領寄進状において、「永荒之所切起」と指示している。牧堰築造の指示も農業生産力増大策の一環であったと推測される。
慶長18年(1613)9月27日、77歳で亡くなり、子の弥八郎がその前年に残していたため、世嗣がなく、大久保家は廃絶となり、城も破却されてしまった。

(「牧堰・門池用水 水見の恵み人々のくらし」平成19年9月発行:明治史料館)
本宿用水・・・慶長8年(1603)、当時の領主。興国寺城主 天野三部兵衛康景か黄瀬川から取水して本宿耕地へ流下させるようにした灌漑用水路で、トンネルだけでも長さか280問(609メートル)あった。ここはそのトンネルの入口である。
その後、安政の大地震(1854)が起こり、これは陥没大破した。そこで領主に懇願して金230両を下げ渡してもらい、また、借金をしたうえ、下土狩村にも再びトンネルを掘る了解を求めた。
こうした技術面・財政面での困難を克服し、新規掘り返した結果、383間(696メートル)のトンネルになっている。長泉町教育委貝会(現地説明板より)