2019年12月3日火曜日

岳南鉄道




 岳南鉄道
 静岡県内最多の鉄道計画案
 
 明治二十二年(一八八九)二月一日東海道鉄道国府津・静岡間が開通し、鈴川停車場(現吉原)も同時に開業した。かつて、東海道吉原宿として栄えた吉原町の町並みから鈴川停車場までは、はるか四キロの距離を隔てていた。明治四十二年四月二十一日東海道本線富士駅が開業し、その後富士身延鉄道と接続し、周辺の加島村はじめ岩松村・田子浦などは「文明への入口」として恩恵に浴したが、吉原町は疎外されていた。吉原町は鉄道のない街として近隣の伝法村・今泉村また根方方面の村々も、経済的・文化的、また時代的にも随分辛抱を強いられてきていたのである。
 太平洋戦争後、地元から岳南工業地域へ貨物と工場労働者を輸送したいという強い要望が起こった。敗戦の厳しい現実から復興への新しい希望に燃え立たせるには、まず交通問題の解決が課題となった。これは吉原町住民と製紙業界関係者の長年の切なる願いでもあった。しかし、吉原町にこれまで鉄道敷設の計画がなかったわけではない。むしろ吉原地域には県内最多の鉄道計画があったといって過言でないくらいである。

 大正六年(一九一七)、沼津を中心とした地元の人たちによって駿富鉄道株式会社が創立されている。沼津を起点として吉原を経て大宮(現富士宮市)に至る二二キロの鉄道計画で、敷設免許を得て工事に着手したが、大正七、八年の経済不況で解散した。大正七年には富士馬車鉄道の一部を譲り受けて吉原町.須津村間の根方街道の道路上に、根方軌道を敷設する動きがあったが、これも実現されていない。昭和二年(一九二七)沼津と吉原の有力者らが駿富電気鉄道株式会社を設立した。計画路線は、沼津から愛鷹山南側の根方街道を経て下和田・伝法.鷹岡村(富士製紙第一工場が所在)に至る鉄道で、関係町村では積極的な姿勢を示したが経済恐慌の最中で資金難から実現できなかったものと見られる。
 吉原町依田原にある東京入絹吉原工場が、昭和八年鈴川駅から工場までの二・三キロに会社専用の鉄道を敷設した。このとき、井出儀作吉原町長は用地買収やその他建設のために積極的に支援したという。これは住民の要望を考慮した将来への布石だったのであろう。昭和十八年に駿豆鉄道(現伊豆箱根鉄道)が沼津・吉原間の計画を行ったが、太平洋戦争の激化によりこれも中止となっていた。

 戦後吉原町に鉄道敷設機運
 戦後の混乱の最中、駿豆鉄道では再び戦前の鉄道計画を実現させようとして準備を進めていた。昭和二十一年十月十六日、鉄道布設免許申請書を運輸大臣平塚常次郎宛てに提出した。昭和十八年の計画を一部変更し、吉原町から沼津市静浦に至る二二・二キロで、建設費三五〇万円、目的は平和日本建設の一助に地方産業開発のためであった。
 吉原町には戦後「郷土に鉄道の実現を」のスローガンが掲げられ、交通協議会が設立され、鉄道敷設への強力な運動が展開されていた。それは戦後のたくましい息吹とともに、戦争中の苦難に満ちた交通対策をくぐり抜け、幾多の実現未遂に終わった時代に対する苦い経過があったからである。吉原町では駿豆鉄道の鉄道計画を歓迎した。しかし、計画案では沼津市から根方街道に沿って西進し、吉原町を経て鷹岡町入山瀬で国鉄身延線と接続しようとしている。これでは吉原町は通過地点に過ぎない。そこで国鉄鈴川駅から日産吉原工場(旧東京人絹吉原工場)までの二.三キロの引込線をそのまま利用して、同工場の裏から西方へ迂回して今泉木綿島地区の停車場予定地(現吉厚駅)までの区間を第一期工事とする修正案を立てた。
 駿豆鉄道側は日産工場の諒解が得られれば異存はないということであった。吉原町当局は、早速日産工場に対し引込線の譲渡か共同利用か交渉した結果、その敷設区間を賃借することとなった。

 駿豆鉄道が出願して積極的支援
 駿豆鉄道では吉原案を採用して既定計画案の変更認可申請を行い、関係機関に陳情する一方根方各村に対しての働きかけを進めた。原田村・吉水村・須津村・鷹岡町とも、吉原町同様に要望しているところで、第二期工事で須津村まで延長されれば全面的に協力を惜しまないということであった。
 岳南鉄道期成同盟会が昭和二十二年六月三日吉原町役場にて開かれ、同盟会長に房間熊吉吉原町長、実行委員には関係町村長・議員・実業家ら五一名が選ばれた。その後、房間会長は都合で辞任したため、後任に吉原商工会副会頭斎藤徳次、実行委員長に中井芳太郎吉原町助役が選ばれ、実行委員に四名が追加され陣容が強化された。
同盟会趣意書には「現状では産業の発展も文化の向上も到底不可能である。総力を結集して一日も早く会社側の大構想を実現させ、郷土の発展・民衆の福利を増進したい。交通難を解消し、南北の産業文化の交流円滑ならしめ、郷土の飛躍的発展を期する」とあり、その意気込みを示した。
翌二十三年二月十八日鈴川・吉原・原田・富士岡に至る六キロの敷設免許が下付され、待望の鉄道建設が実現に向けて第一歩が踏み出された。この朗報に地元民は喜び、いよいよ当事者らは株式の募集.会社設立.工事施行認可の申請・用地買収・工事の施工など、山積する問題に本格的に取り組むこととなった。

岳南鉄道創立初代社長斎藤徳次
期成同盟会とは別に岳南鉄道発起人会が駿豆鉄道大場金太郎常務取締役ら一〇名で構成され、資本金四〇〇〇万円、}株五〇円の八〇万株とし、発起人株は二〇〇〇株を引き受けることとなった。株式の割り当ては、地元関係者・有志らが四〇万株、駿豆鉄道株主の応募で四〇万株を消化することに決まり、同年末には六二七人の株主を数えた。
すでに下付されていた本鉄道敷設権は、駿豆鉄道株式会社より岳南鉄道株式会社に対し同年五月一日両社の代表により無償譲渡の契約が締結され、同年六月十一日その旨を運輸大臣宛に申請され、同年十月二十二日その認可が得られた。次に工事施工認可を得るべく駿豆鉄道株式会社の積極的な援助を受け、同年十一月一日工事施工認可申請を運輸大臣に提出した。鈴川・江尾問九〇〇三メートル、総工費九八四一万六八〇〇円、一粁(キロ)当たり一三八一万円となっている。
 昭和二十三年十二月十日、今泉小学校講堂において岳南鉄道株式会社創立総会が開催された。取締役社長に斎藤徳次富士製紙工業社長、専務取締役に大場金太郎駿豆鉄道常務、常務取締役に中井芳太郎吉原市助役、取締役には斎藤知一郎大昭和製紙社長ほか、稲垣直文.坂野碩太郎、大和瀬干浪・木内真雄・小島正治郎・小高義一、監査役に仁藤覚次郎吉原町元助役・鳥羽山康一がそれぞれ就任する。本社事務所は富士南部商工会議所を間借りしてスタートした。
全国に数社あった鉄道申請にさきがけて昭和二十四年六月八日、待望の工事施工認可が下付された。
 同年七月一日、吉原市木綿島六四番地(現吉原駅貨物ホームの位置)で運輸省松下技術課長.鈴木清一吉原市長ら関係者の参列を得て起工式が挙行された。鍬入れ式にのぞんだ会社主脳部の安堵感はどれほどであっただろうか。
 
鈴川・吉原本町 間待望の開通 
 
 昭和二十四年十一月十七日、鈴川・吉原本町問が開通する。用地買収その他で難航し、予定より一ヵ月半遅れていた。軌間一〇六七ミリ、区間二・七キロ。車両は木造の電動客車二、不随客車二の合計四両を西武鉄道・駿豆鉄道から譲り受けて運転した。車両は中古車のうえ、どれも運転操作が違い、運転士や整備工はその扱いに随分苦労した。地元新聞は「多年の夢実現、駅のない町ここに解消、多彩な祝賀行事」などの見出しで祝意を報じた。
 この日、早朝五時五十三分吉原本町発、鈴川行を始発として早くも開業された。午前十時から吉原本町駅前広場において開通式が挙行された。運輸省・通産省・名古屋鉄道管理局の係官、小林武治静岡県知事・沿線市町村首長・施工業者・株主・会社関係者ら多数が参列した。岳南鉄道は単に一企業の鉄道でなく、吉原市の将来構想の-翼をになう観点から周辺自治体と地域の有力企業と沿線住民の支援によって生まれたのである。こみ上げる喜びを抑えて式典
の挨拶に立った斎藤社長の心中に去来したものは何だったであろう。
(「静岡県鉄道興亡史」森信勝著 平成9年12月27日発行より)

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